憧れのクロアチアを旅して

期間:2006年8月23日〜2006年9月2日
Y 様

GON-000103

友人Mと二人で、クロアチアに

行こうと決めたのは、去年の12月のことでした。ホテルやクロアチアの見るべき所をネットで探しているときに出会ったのが、PPJの【憧れのクロアチアを訪れて8日間】でした。日程、ホテル等の変更が可能だと言うことで調整をし、11日間の旅行になりました。

8月23日、まだまだ繁忙期と言うことで、座席がバラバラとのこと。友人Mのnegotiationで何とか二人並んで座ることが出来、フランクフルト経由でザグレブへ。ホテルはシェラトンザグレブ。とても良いホテルでした。新しいし、きれいだし。

ザグレブの街自体はそれ程大きくはなく、派手さもなく、落ち着いた東欧の街。道路がわかりやすいので、歩くのに難しくはなく、ホテルから繁華街まで10分位でした。

クロアチアが、ネクタイ発祥の地とは知りませんでしたが、夫に本店でネクタイを買い、Mは、クロアチアの記念にとアクセサリーを買っていました。夜も、食事の時に二人で歩いて行ったのですが、危険なことはなく、ただ、あちこち工事中で、それだけが閉口でした。


さて、翌日はプリトヴィッツェへ。

バスで2時間15分。沿道にはまだまだ戦争の爪痕が沢山残されていて、当時の撃墜された飛行機や戦車などがメモリアルとして残っており、また一般住宅にも沢山の縦断の跡があり、内戦終了から10年が過ぎているのにまだまだ復興には時間がかかるのでしょう。

プリトヴィッツェは、大小13の湖の集まりで、本当に美しく、水は何処までも澄んでいて、泳ぐニジマスたちさえも手でつかみ取れそうなくらいでした。そして、何処までも青く澄んだ湖。歩きやすいように2時間から6時間のコースがあり、私たちは2~3時間コースを自分たちで調整して歩きました。




翌日ザグレブに戻り

1泊し、いよいよ憧れのドブロブニクへ。ホテルは、ホテル プレジデントのオーシャンビュー。行き交う外国の沢山の船を見ながら、飲むワインは、又格別の味がしました。

その日の内に、マルコポーロの生家のあるコルチュラ島と、ボスニアヘルツェゴビナのモスタルツアーを申し込みました。両方とも行く曜日が決まっているので、旅行日程によっては行けないこともあるみたいでした。私たちは、ドブロブニクに5泊の予定でしたので、両方とも参加が可能でした。

オーシャンビューから
オーシャンビューから

一日目は旧市街地の城壁の街へ。

その日は日本の団体が来てきて、あちこちで日本語が聞かれました。

旧市街地は本当に狭くてメイン通りこそ、外国の観光客であふれかえっていましたが、少し路地を入ると、そこでは普通に暮らしている人が大勢いるのです。道に迷ってその迷路のような小道へ行くと、そこここから生活の臭いがし、子供の楽しそうな笑い声が聞こえてきました。

当時の総督の家が改装され、一部は戦争で亡くなった人たちの写真と、その当時のビデオが無音でエンドレスで流れていて、胸を打たれました。又別棟は、演奏会が開かれ、以前には五嶋みどりさんも来たそうです。

城壁を1周しながら、旧市街地と、反対の海を見ていると映画を見ているような不思議な気分になります。そしてやはり戦禍の跡が気になりました。城壁には砲台があり、大砲もおいているのです。

1日を旧市街で過ごし、翌日はコルチュラ島へ。2時間半のバスと30分の船の旅。沿道の街はあくまでも美しく、所々に戦禍の跡があり、アドリア海には、宮崎アニメ“紅の豚”の背景モデルにもなった場所と聞いていたのですが、それが本当だと確認できました。

旧市街
旧市街

旧市街
旧市街

旧市街の入り口
旧市街の入り口

コルチュラ島にも

観光客が沢山いました。ここは、内戦の時、唯一戦禍を浴びずドブロブニクから沢山の被災者を受け入れ守ったのです。教会の中にはドブロブニクを抱いている聖者の像があり、昔からドブロブニクを守っていたそうです。

周囲25分もあれば全部見ることが出来ます。又、ここはマルコポーロの生家があったところ(?)として有名です。ここには世界中からの貢ぎ物や、お金が展示されていてその中には日本の【天保實宝(?)】がありました。

ここで昼食をとったのですが、シンプルに焼いたお魚とイカがとても美味しかったです。


翌日は、ホテルで

ゆっくりと海に入ったり、街へ買い物に行ったりし、いよいよ最終日のボスニアヘルツェゴビナツアーです。朝7時5分出発。あちらこちらから沢山のバスが出て、全部モスタル行きでした。全部で何台あったのか見当もつかないくらいです。行き交う観光バスが全てモスタルと書いてありました。

およそ3時間。途中2回の休憩を挟んでモスタルへ着きました。

ボスニアヘルツェゴビナとクロアチアは、国境が入り組んでいるために何度も国をいったり来たりします。小さな監視所があるのですが、ここでは“やあ”と言う感じです。最終的に内陸に入ったところに本当の国境がありました。

折りしも土砂降り。私たちは天気予報を聞いていたのでカッパと傘を持参していましたが半数の人は何もなく、ぬれていました。

いきなり、戦争で壊された家々が目の前にあり、まだまだ沢山の家が直すことも出来ずにそのままの状態だとか。世界中から支援のお金が来ても、政治家がポケットに入れてしまうので、復興するのが難しいと、ガイドさんが言っていました。

橋は、1992年から1993年にかけて破壊され、最後には危険だと言うことで自分たちで落としたそうですそれが復興したのは、2004年。世界遺産に再び登録が出来たのは、当時の材料で当時の方法で再建したからでした。



橋のたもとの資料館には、橋が壊されていく過程がモノクロの写真で淡々と貼ってありました。

この街は、橋の向こう側がイスラム教でこちら側がキリスト教の人々が住み、決して交流することはないそうです。行き来しているのは、観光客だけ。当然、お酒もイスラム圏では飲めません。そうでない方で昼食を食べました。美味しかったです。

又、普通のトルコの方が自分の家を観光客に開放していました。女性の部屋はカラス窓、戸もなく吹きっさらし。寝室は子供と。ここには窓がある。男性はその奥に見晴らしの良い光がいっぱい入ってくるきれいな部屋が。思いっきり男尊女卑で、トルコには住みたくないなあ。

おみやげ屋さんでは、とんでもない刀が売られていました。これが!!絶句したくなるような代物です。
およそ4時間いて帰路につきました。

8月30日。ドブロブニクを去る日が。

お天気は最高。午後フランクフルトへ。ホテルはサボイ。駅にも近くて便利で、日本人も沢山泊まっていました。が、ホテルは評判通りあまり良くなくバスタブのお湯をぬいたら、洗面所の排水口から逆流してきてあわや大洪水に。また、貴重品入れの金庫もなかったり。が、超直は評判通りに、この旅行の中では一番美味しかった。

ここでは買い物をしたり食事をしたり、ゲーテハウスにいったりと、楽しんだのですが詐欺にひっかかり、カードを盗まれてしまいました。

被害はありませんでしたが、ニセ警官がカードがスキミングされているかもしれないから居調べる、カード番号を教えろと言われ、だまされてしまいました。ですが、Mは、カードのキャッシングを0円に設定していたので、実害はなかったのです。気がついたのが、翌朝の出発前だったので警察に被害届は出しませんでしたが、新たな詐欺の手法みたいです。

こうしていろいろなことがありましたが、無事に11日間の楽しい旅を終了することが出来ました。

ゲーテハウス
ゲーテハウス

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