【旅のエッセイ】 スイス・チューリッヒ歴史散策

期間:2018年5月9日~2018年5月15日
パーパスジャパン:迫田

GON-001324

スイスは小さな国で日本のような大都市はない。

一番大きな町がチューリッヒで人口は40万人ほど、人が住むにはもっとも適したサイズの都市である。

スイスと言えば日本人はみんな壮大な雪山をいただくアルプスを想像する。
たしかにスイスの山岳風景は雄大でスイス全土に広がり、最大の見どころだ。

世界広しといえども、これだけのスケールの山岳風景をいとも簡単に訪れることが出来る国はスイスだけだ。世界一のネットワークを誇るスイス国内の鉄道は、簡単に短時間でどこでも行くことが出きるから本当に便利だ。

でも、スイスは山岳風景だけの国ではない。
この国の都市の歴史は古代ローマの時代にまでさかのぼる。

チューリッヒは今から2000年以上前にすでに交通の要だった。
古代ローマがチューリッヒ湖から流れ出るリマト川に関所をもうけたことから始まる歴史ある古都である。

13世紀になると、この地域に南北に通ずる街道が出来たため、人と物資の往来が多くなり、経済的に繁栄した。そこでチューリッヒはこの地の支配者でもあった神聖ローマ帝国の皇帝に市の自治権を願い出て、その許可をえて帝国自由都市となった。英語では Free Imerial City という。それは1219年のことであり、時の皇帝はフリードリヒ2世で彼はシチリア王国とナポリ王国の国王でもあった。

現在のスイスにある小さな町が同盟を結びウイーンにいたハプスブルク家の干渉にたいして反旗をあげ、森林同盟を結成して事実上の独立を求めたのは1291年の8月1日のことであり、いまでも8月1日はスイスの独立記念日である。

【チューリッヒの街並み】

もっとも、実際に神聖ローマ帝国がスイスの独立を認めたのは、ずっと時代が下り、宗教戦争として有名な30年戦争のあとの1648年のウエストファリア条約によるものである。この条約で決められた欧州内の国境は今でも、大体が現状のままであるから欧州の国の形を決めた条約として知られている。

チューリッヒは今でもスイス経済の中心地であり、旧市街地は中世のままの建物が数多く残り、石畳を歩くと昔の町の息吹さえ感じられる。

旧市街地を歩くと Reformation という文字が書かれている看板がよく見受けられる。この町は革新、改革を常にめざしているようだ。Reformation という意味は改革という意味であるが、チューリッヒは宗教改革の中心地でもあった。
ドイツ人のマルチンルーターが1517年にローマのバチカンに対して、95条にのぼる公開質問状を出したことは誰でも知っている歴史上のできごとであるが、彼は宗教革命などと後年言われる大げさな事件を引き起こそうとしたわけでない。あまりにもバチカンが堕落しているので、それを正そうとしただけであり、彼自身は後年になり惨禍を招く宗教戦争を意図したものではない。

しかし、彼の行動に対して賛同する人の中には、過激な人物もたくさんいたのである。その一人がチューリッヒの宗教家であるフリードリヒ ツヴィングリで、最初はルーターとの間で利害が一致していたのだが、やがてたもとを分かち、物別れになった。ツヴィングリは宗教改革に対して軍事的拡張を主張したので改革派と呼ばれ、ルーターの率いたルーター派とは区別されている。

彼はとうとう1529年に第一次カッペル戦争を引き起こし、第二次カッペル戦争のさなか捕らえられ1531年に戦死し、その後で亡骸は火あぶりにされた。

彼のあとを継いだのがカルバヴァン(1509-1564)で、ジュネーブを拠点として宗教改革にまい進した。カルヴァンはフランス人で、新教徒への弾圧を逃れ、ジュネーブへ逃れた。ジュネーブは当時、ローマ教会の干渉を嫌い、絶縁を宣言していたので、カルヴァンのような指導者を 必要としていたのである。
カルヴァンは厳しい禁欲主義者で、一生を宗教改革のために身をささげた人です。カルヴァンの流れを汲む人たちはフランドルから英国に広がり、清教徒(ピューリタン)と呼ばれるようになる。メイフラワー号でプリムスにわたり、アメリカ建国の礎となったのである。

歴史的にもスイスは改革の地でもあったわけだ。

チューリッヒの旧市街地の散策をしてみてください、まさに歴史の散歩道である。
1336年にギルド(職業別組合)ができましたが、ギルド革命と言われている。
1519年に宗教家のツヴィングリの宗教改革がスタート。
1916年にはダダと言われる芸術家の改革があり、1917年にはロシア革命をやり遂げたレーニンが住んでいた。
素晴らしい教会とこれらの歴史遺産を自分の足で歩きながら肌で感じてほしい。

チューリッヒの改革には別な局面もある。
旧市街は中世そのままに残されているが、新市街地は改革の真っ最中であるということだ。

西地区と呼ばれる地域はかつて工場と倉庫街で、それが老朽化と工場の移転がすすみ閑散としていた。そこで市は広大なこの地区の再開発に乗り出し、新しい町づくりに邁進している。そこには斬新なデザインのホテルや古い工場を上手に生かしたインテリがのある素敵な空間、若者向けのアトラクション、映画館、劇場、音楽を楽しめる場所、そして美味しいレストランがたくさん軒を連ねている。

昼間は買い物と散策、夜は食事とエンターテインメント、何時間いても飽きない新感覚の町になった。チューリッヒの町には、その人口と不釣り合いなほど多くの美術館と博物館があり、町歩きには最適である。

【チューリッヒの街並み】

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◆ スイスのチョコレート屋さん巡りOPツアー

チューリッヒの旧市街を歩くと小さなチョコレートやさんが目に付く。
スイスのお土産と言えばチョコレートといわれるくらいに人気があるが、日本からの観光客がお土産に買うのはたいてい大手のメーカーの製品が多い。

小さな老舗の店は、それぞれが代々の作り方で伝統の味を保ちながら、新しい味を追い求めているが、その多くが家族経営で、リンツやシュプリングリーなどの大手とは違う方法で店を運営している場合がほととんで老舗には老舗の味がある。

そんな老舗の店があるチューリッヒの旧市街を散策して専門家が案内するツアーがあり、そして、それぞれの店では、その店の看板商品を味わいながら、チョコレートの歴史を説明してくれる。

専門のガイドの説明によると、カカオ豆には大きく分けて3種類の豆(クリオロ種、フォラステロ種、トリニタリオ種)があり、その中でも最高級品は ーー Criollo de Maracaibo(クリオロ ディ マラカイボ)という品種であること。その豆は味は良いけど、豆が小さいので経済的には高くつき、おもに高級品しか使わないこと。そして、クリオロは現在ではメキシコで主に栽培され輸出されていて、日本の業者もこれに注目していてメキシコに視察や買い付けに行ってるようである。

カカオ豆:原産地はアマゾン河の流域らしいがーー
これがペルー、ヴェネズエラなどにも伝わり、メキシコで栽培されるようになった。メキシコではマヤ、アステカの時代に重宝されており、薬として、また儀式にも使われており、とても貴重なものでしたのでお金の代わりにもなったようだ。

チョコレート屋さん
チョコレート屋さん

チョコレート
チョコレート

歴史的に言えば ーー
スペイン帝国の軍隊が初めて現在のメキシコの本土に上陸したのは1519年のことで、当時はアステカ王国の時代であった。軍隊を組織した人はフェルナンド コルテスでコンキスタドールの一人である。わずか2年間で、コルテスは当時のアステカ王国の首都であったティノティトランを征服してしまったーー現在のメキシコシティがそうであり。1521年のことだった。

スペインの軍隊がメキシコからカカオを母国に持ち帰り、スペイン王室の御姫様たちの好物となるーー初めて砂糖をいれてチョコレート飲料として愛飲された。当時は新大陸には砂糖はなかった。だからスペイン人が来るまではマヤ、アステカの人たちは甘いカカオドリンクなんて知らなかった。

後年、カリブ海の島々が砂糖の栽培に適していることがわかり、砂糖のプランテーション農業が盛んにおこなわれたが、地元の住民は欧州人が持ち込んだ伝染病で壊滅的な打撃を受け、労働力が不足して、その代わりとしてアフリカの人たちがから奴隷として島々に運ばれている。砂糖栽培が新大陸に適していると最初に気が付いのがオランダで、あとで軍事力に勝る英国が力でカリブ海の島に栽培地を広げた。

砂糖は東南アジアが原産で、インドからアラブの国に広がり ーー
それが欧州にも輸入されたのである。寒冷地の欧州は砂糖の栽培は出来ないので、輸入する。エジプトのナイルデルタは砂糖の産地でもあった。砂糖はアラビア語でスッカルと言うが ーー それがシュガーという英語の語源である。ちなみにイタリア語ではズッケロと言う。

スペイン王国からフランス、ベルギー、イタリアへのひろがり、ある説によるとスイスにはどうもイタリアのトリノ(当時のサヴォィア公国)からジュネーブあたりに伝わったようである。スイスで初めてミルクチョコレートが出来るようになり、かつ現在の滑らかな味のチョコレートもレマン湖のあたりで量産された。チョコレートが世界中に広まったのはスイスのおかげなのである。

その源は、レマン湖のほとりにある小さな町ヴヴェイ。ここがネスレ発祥の地である。

◆ チューリッヒのギルドハウス

ギルドハウスの楽しみ方

チューリッヒの旧市街地は中世の建物が数多く残され、昔のたたずまいを今によく残している。
その中にギルドハウスもあり、外見は往時のままの姿である。ギルドハウスとは同業者組合の建物のことで、金回りのいい職種ほどその建物も素晴らしかった。

スイスの人は働き者で、勤勉さと質実剛健がその特徴で、だまってほっておくといつまでも働く傾向がある。それゆえに一般のお店は営業時間が決められ、午後6時にはほとんどの店は閉店するのが規則になっており、例外はレストランと薬局だけ。

夕暮れ時からはショッピングはウインドーだけとなり、あとはぶらつくしかないが、歴史的建造物で夕食が楽しめる場所がある。それが職業別組合があったギルドハウスで、レストランとして営業しているところがあり、おいしいスイス料理を楽しめる。中世そのままの建物の中で味わう地元の料理はおすすめである。

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スイスの郷土料理とは何だろう?
大きく分けるとドイツ語圏とフランス語圏に分けられるが(この際、さらに小さなイタリア語圏のことは、あえて加えないことにする)、チューリッヒは紛れもなくドイツ語圏にある。

チューリッヒの名物料理は、ゲシュネッェルテスという子牛肉とキノコのクリーム煮だが、これをギルドハウスを改造したレストランでいただくと、チューリッヒに来たことを実感すると思う。
付け合わせには、ぜひともドイツ語文化圏のソウルフードでもある、レシュティを食べてみてほしい。レシュティ(Rosti)とは短冊状に切ったジャガイモをゆで、パンケーキのようにフライパンでバターを足してこんがりと焼いたもので美味しい。

それとスイスはチーズが最高においしいのである。
極めつけは、やっぱりチーズフォンデュだと思うが、どこのレストランでもやっている料理ではない。チーズフォンデュはその専門店で楽しんでほしい。

◆ リギ山と近郊の旅

都市を結ぶ鉄道と登山電車、ハイキング、湖のクルーズと古都ルッツエルンの散策を一日で楽しめる大満足の日帰り旅行 リギ山への旅

スイスの名峰と言われる有名な山をすでに経験した人、または一般のスイス人たちが気軽に訪れることのできる山に登りたい人に最適なのがチューリッヒからのリギ山への日帰り観光である。

終日楽しめるお奨めの旅をお教えしよう。
この行程なら、普通電車、登山電車、ハイキング、湖上遊覧、古都の散策と一日でスイスのだいご味を味わうことが出来る。

まず、朝チューリッヒを電車で出るーー行き先はアウト ゴルダウで、ここで下車して登山鉄道に乗り換える。乗り換えは実に簡単で、下車したホームから徒歩で数分でリギクルム行の電車に乗ることができる。

リギクルム鉄道は新型のラックレールを考案した人の手により欧州で最初にできた登山鉄道である。かつて英国のビクトリア女王は登山電車がなかった時代であったので、お供が腰に乗せて、アメリカの文豪マークトウェインは歩いて登った。リギは世界の著名人を魅了し続けている。

終点でのリギクルム(海抜約1750m)では眼下に広がる絶景を堪能したあと、下山する際に鉄道に乗らないでハイキングを楽しむことをお奨めする。それほど難しい道でもないし、普通のウオーキングシューズでまったく問題ない。ハイキングコースを1時間ほど下るとリギ カルトバート(海抜1423m)に着くが、もちろん途中の風景はすばらしい。

ここからは2つの下山方法がある。まず、登山電車でフィッツナウへ下り、接続している遊覧船でルッツエルン湖のクルーズを楽しみながらルッツエルンへ行き、街並みを散策してからチューリッヒへ電車で戻る方法とリギカルトバートからロープウェイでウェッギスへ下り、接続の遊覧船でルッツエルンへ行く方法。

リギへの観光は全ての乗り物が便利なスイスパスで行くことが出来る。

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◆ ラインの滝

ヨーロッパの河川の中でライン川は2番目に長い河であるが、歴史的な出来事やその重要性から言えば欧州ナンバーワンの母なる大河と言える。ちなみに一番長い河はドナウである。

実はライン河に大きな滝があることを知らない人が多い。
そう、あの大河には滝があるのだーーその落差は25mほどだが、その水量ははんぱなものではない。

上流を少しさか登れば、琵琶湖の三分の二の大きさのボーデン湖がある。湖からの水量がすごいから滝の下流の急流は大変なもので滝つぼにボートで近づくとびびしょ濡れになるが、まじかに滝を見るために世界中から観光客がやってくる。

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ライン河は欧州のど真ん中を北海まで流れているので昔から交通の要衝であり、多くの船が荷を積んで下流と上流をいきかってきた。運送業者にとり、この滝は邪魔だったわけで滝のある地点で一度、船から荷下ろしをして荷物を積みかえなければならなかった。このために滝の近くには町が出来た、その名をシャッフハウゼンというが、船の宿という意味があるそうだ。

シャッフハウゼンはライン川の交易で栄えた町で美しい壁画が描かれた中世の建物が並ぶ旧市街があり、ここはドイツに入り込んだ歴史の町でもある。まじかに見る滝の迫力はすごい、そして誰でも簡単に滝をまじかにその大迫力をみることができるのだ。

船の往来にはこの滝を邪魔だと考えたオランダ人が爆破をこころみたことがある。また、ここに大きな水力発電所をつくろうとした人がいるが、地元の住民の反対で出来なかったそうだ。

確かにこの滝があると船は登れない、魚でものぼれないそうだがー唯一登れる生き物がいるーーそれがウナギだそうだ。ウナギってすごいなあ。

ラインの滝はチューリッヒから滝のある駅まで鉄道で半日あれば簡単に行けるスイスパスがここでも有効だ。

◆ ラッパーズヴィルとアイジンデルン

中世の町と修道院を訪ねる旅

チューリッヒの中央駅から鉄道でわずか30分でラッパーズヴィル ヨナに到着する。
町の名前にヨナという地名がつくのは市町村合併によるもので、ヨナは最近まで隣の町だった。

われわれが訪れる町は中世の面影を良く残しているラッパーズヴィルの旧市街である。
ラッパーズヴィルは素敵なレストランとヨットハーバーのある可愛い小さな港町である。

駅から徒歩数分で旧市街に着く、この町はここから徒歩で5時間の距離にあるアイジンデルンの修道院への巡礼の道筋にあたり、巡礼者はここから湖につくられた木造の橋をわたり旅をした。 今でも年間1000人ほどの巡礼者がここから歩いて対岸にある修道院へ行くそうだ。

巡礼の道は聖地への旅をするために設けられたルートであり、ここからはるか遠くのスペインのサンチャゴデコンポステラまで聖ヤコブが祀られている大聖堂までの長い道中である。

地元の人は聖ヤコブの橋と呼んでいる木造の橋は、オーストラリア公のルドルフ4世の命により1358年に造られたもので、現在の橋は2001年に再建された。聖ヤコブのトレードマークはホタテ貝のため、聖地への道筋を示す標識としてホタテ貝が道路の随所に置かれている。

ラッパーズヴィルの旧市街は城壁で囲まれ、400年以上前にできた石畳を登ると見晴らしのいい丘の上に出来た教会とお城に着く。
この町は城塞都市で城壁で外敵侵入を防いできたのだが、その外敵とは周辺の都市であり、その中にはチューリッヒも含まれていた。18世紀まで、この町とチューリッヒは仲がよかったわけではない。

湖のそばにある風光明媚なラッパーズヴィルは週末のチューリッヒ市民の憩いの場所でもある。
いまではチューリッヒの人はこの町が大好きだ。

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アイジンデルンの修道院は聖ヤコブの大聖堂への旅の巡礼者が必ず訪れる聖地であり、ここをお参りしてからさらに遠くを目指して旅をする。

修道院はとてつもなく大きい。
こんなに大きな修道院は、僕が訪れたことのある有名どころではイタリアのアッシジの聖フランチェスコのものとスペインのマドリッド郊外にあるエルエスコリアルのサンロレンソだけである。ここをおとずれる人は、必ず聖母マリアの像にお参りをすることになる。黒いマリアと呼ばれる像は、すすで黒くなったせいらしいが、きれいな明るい色のコスチュームをまとい、顔以外は黄金色に燦然と輝いている。

修道院の内部はバロックとロココ調のデザインでかなり派手に彩色され、ここを訪れる人は内部の装飾の豪華さにおどろかされるはずだ。

ここを訪れて、感じたことは、こんな大きな修道院を維持運営するのに大変なお金がかかるだろうと言うこととそのお金はどうしてるんだろうと。その答えは、多くの篤志家がいて寄付金で賄っているそうで、数名の著名人の名前をあげてくれた中に名前を聞いたことのある人が数名いた。

とにかく一見に値する、大きなスケールの修道院である。

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