【旅のエッセイ】 三国志の旅

期間:2018年6月12日~2018年6月21日
パーパスジャパン:迫田

GON-001404

旅のルート

旅のルート

一口に盆地と言ってもその大きさから行って中国の盆地は日本の比ではない。

中国4大盆地と言えば新疆のタリム、ジュンガルがあり、ツァイダムと続き、四川となる。

四川盆地の面積はおよそ16万平方キロ(日本の面積は36万平方キロ)で夏は高温、冬は穏やかで湿潤な気候の長江流域にある四方を高い山脈や高原に囲まれた大きな盆地である。

四川盆地の平原に成都はあり、遠くの山はパンダの故郷でもある。

四川省と言えばまず重慶が思い浮かぶ人が多いと思うけど、省都は成都である。もちろん住んでいる人の数からいえば重慶のほうが圧倒的に多いが2番目に大きな成都でも人口1400万人の大都会である。

昔は、重慶も成都も人だけはやたらと多いけど都会というより田舎の町だったけど――――
どちらもいまでは近代的なビルがたちならぶ巨大都市へと大きく変貌した。高級デパートやショッピングセンターさらには5つ星ホテルもたくさんある。

成都の風景

2018年の6月に僕は成都の空港へと舞い降りた。

中国に来るたびに感じることは空港の設備が大きくなり、きれいに整備され立派なことだ。

とにかく中国はインフラの整備に時間とお金をかけている。空港も駅も高速道路も、どんどん拡張され――本当にこんなんで国と省の財政は大丈夫と心配するくらいだ。

もちろん、急速に変貌する町にはいびつに感じるところもたくさんある。
急激な都市化による人口の増大に都市の整備がついていけないところがあり、一般の市民も不便を強いれらているんだろうと思う。交通渋滞なんて最たるもので、それだけにスマホの交通情報はリアルタイムで表示され中国ではカーナビは必要ない。

それでも、中国はどんどん発展しており、3年間も同じ町に行かないと大きく様変わりして同じ町だとは思えない時もある。

                  * * * * *

成都に夜着いたけど、このまま何も食べないと真夜中におなかがすくだろうということになり、軽く夕ご飯を食べに行った。

実は中国の地方のレストランは店じまいが早い。
成都のような大都会でも普通のレストランは夜の9時ごろにラストオーダーとなり、10時には閉店するのである。

中国人の晩御飯は早いんだなあと――みんなあまり残業なんてしないのかな?
そういえば中国のサラリーマンは時間通りに働くと定時にみんな会社を出る。
どんなに会社が多忙でも使用人だとわりきっているので、サービス残業なんてしない。
まあ、それが当たり前と言えば、当たり前の話で、日本がおかしいだけだろう。

でも例外はどこでもあり――開いている店は実はある。
それが火鍋やさんであり、町中のいたるところにあるーーほんとに火鍋やさんは多い。
夜遅くに大勢でご飯を食べるのなら火鍋やさんにいけばいい。

もっとも辛いのに弱い人、いや弱くなくても止めたほうが良い――とんでもなく辛いからだ。
とんでもないという意味は、日本人から見た話で、地元の人は辛いなんて思わない。日本人には激辛の鍋でも、地元の人はへっちゃらだ。

僕自身は辛い料理は大好きで、インドでもタイでも大得意だと自慢しているけど――本場重慶の火鍋だけはまともに一人前は食べられない。

昔、ある店が美味しいと言う評判を聞き、しかもそれほど辛くないからと言われて食べに行ったが、僕は半分も食べきれず残してしまった――汗だくで口の中は燃え上がり、がんばってみたけれどもう全員がギブアップ――美味しい材料を頼んでおいたのに、ああもったいないことだ思うけど、もうどうにも口に入らない。

おなじ激辛でも、火鍋は唐辛子と山椒が入っている、しかも大量にである――麻辣(マーラー)というが麻の山椒はしびれるで、辣は唐辛子でのことである。この2つのコンビネーションの繰り出す辛さは、唐辛子の辛さを強調するインド、タイ、韓国の辛さとはちがう――2つのくりだすワンツーパンチでダウンさせられてしまうのだ。

土地の人が考える火鍋の美味しい具材の中にガチョウの腸がある――
まるでうどんみたいに細切りにして皿に出してくるので、最初は麺類かなとおもうほどだ。

地元のガイドさんが、注文するとき一番のおすすめはガチョウの腸だと言ったこともあり――
残すなんてもったいないから、ガイドさん自身が食べていいかとなり――どうぞ、どうぞとたべさせてあげた。まあ、食べるわ、食べるわ――平気でのこりを全部平らげた。

僕が尋ねる――「辛くない?」「そんなに食べて、いくら何でも辛いだろう、すごい汗だよ」と。
彼の返事は――「ぜんぜん辛くない」だった。
彼らは子供のころから辛い料理を食べている――激辛には慣れているんだなあ。

夜は遅いけど火鍋だけは食べられない人が多いということで、普通のレストランにだとりついたのは夜の9時だった。もう閉店1時間前だから、お客はほとんど帰っていたけど、予約してあったので歓待してもらえた。美味しかったので店の名前を書いておく。

【銀杏金閣餐庁】
高級店の部類に入るだけに、接客態度もいいし、店の構えも立派である。
そして何より肝心なことは味の良いことである。
ご存知の宮保鶏丁(鶏とカシューナッツと野菜のピリ辛炒め)小籠包、カリフラワーの炒め物、ワンタンメン。なんでもおいしいので是非一度。

ついでに成都のレストランで食べたお店を簡単に述べてみます。

【四川ダックの店】
北京ダックに対して成都では、四川ダックと言うのある。四川の鴨はお茶と樟で蒸し上げてある。まあ、どちらが美味しいかと言われたら、北京のほうに軍配をあげたい気がするけど人の好みだから四川ダックが美味しいと言う人もいるだろう。

【陳麻婆豆腐】
ご存知、麻婆豆腐の発祥の店。
辛いけど、日本人も普通の人なら食べられるので火鍋のようには激辛でもない。
あとはおこげ(鍋巴)、回鍋肉、骨付き若鳥の唐辛子と山椒の炒め、四川でも辛くないのが青椒肉絲とおこげ、黒酢の効いた酢豚などで辛いのが苦手な人でも大丈夫。

陳麻婆豆腐
陳麻婆豆腐

成都の観光と言えば

成都の観光と言えば、まずパンダ――とにかくここだけは見に行かないと始まらないということで行ってみた。

常時80頭から85頭が飼育されているので、どうぞ、どうぞごらんくださいと終いには飽きるほど見学できる。日本では、長蛇の列で並び、短い時間でありがたく拝見させていただきますという感じだが、ここでは混んではいるもののいくらでもゆっくりと見学できる。しばらくいると――もういいや、大変満足です――パンダは当分は見なくてもいいですとなる。

昔の街並みを再現したショッピング街も2つほどあるけど、なんとも中国国内の観光客がすごいのでまるで原宿の竹下通り状態となる。

杜甫に関する草堂(再現)とか劉備玄徳のお墓とかあるけどーーお墓は未発掘だから本当にここに劉備玄徳が埋葬されているのかどうかわからない。彼は夏の盛りに重慶からさらに長江を下った白帝城で死んだことになっている(亡くなったのは西暦223年)。

当時の状況で、運ぶのに1週間はかかるはずだから、ここまで遺体を運ぶとなると難儀なことだろう――だから遺体があるかどうか真偽のほどはわからない。武候祠には諸葛孔明(西暦181-234年)も祀られいるがこれも清の康熙帝の時代である1671年に再建されたものでオリジナルではない。

杜甫の草堂
杜甫の草堂

お奨めは川劇の変面ショー。
これは絶対に見たほうが良い。中国四川省の伝統芸能で瞬時に顔の隈取(くまどり)を変える技巧は一子相伝の秘伝でもある。

ひとりの演者が5回から6回も顔を変える(正確には顔に張り付いている色のついた布みたいなものをあっという間に変える)これはすごい技術だといわざるをえない――もうひたすら感心するしかない。

川劇

川劇

成都はかつての三国志の主役の一人劉備玄徳が都を置いていた蜀の国で、魏呉蜀の3つの国が覇権を争った時代のことを書いた三国志は日本でもファンが多く、中でも劉備玄徳と丞相だった諸葛孔明は人気が高い。

三国志の旅と言えば、かつては成都を訪れ、さらに重慶へと移動して、そこから船に乗り三峡下りを楽しむツアーが一番人気だった。僕も35年ほど前に最初の三峡の旅をしたことがあり、そのあとも仕事の関係で数回同じことを繰り返し、さらに2009年に新三峡ダムが出来てからも2度ほど旅をしている。だから長江は何度も訪れていて、まあ普通の人よりはかなり詳しいのである。

そもそも三国志の時代は日本の戦国時代(日本は平和な国で戦国時代はそんなに多くない)みたいなもので、中国のその後の歴史をみても戦乱の繰り返しで地上の建物はほぼ壊滅しー当時のものはほとんど残ってなんかいない。極めつけが文化大革命で、この時にかろうじて残っていた建物もをあらかた壊されてしまった。

有名な赤壁の戦いも長江の川岸のこころあたりだったろうと言う場所に、赤壁と書かれているだけであり、長い歴史の中で長江は氾濫をくりかえし、川の流れを縦横に変えてきている。だから、現在の長江の位置が三国志の時代と同じだとは思えない。

赤壁の戦い:西暦208年、長江の赤壁において魏の曹操軍に対して呉の孫権と蜀の劉備の連合軍が、刃を交えた有名な戦いで曹操の水軍はこの戦いで全滅した。三国志の中でも一番の見せ場ということで、ハリウッド映画のレッドクリフはこの史実をもとにつくられた。

新三峡ダムが出来る以前は、重慶から三峡を下り終えるまでの間は有名な難所として知られる激流や急流がいくつもあり、熟練の船乗りしか川下りの船は操れず、川辺には昔からの風情のある歴史ある町や村が点在していた。新三峡ダムの出来る前は下船してそんな古鎮を散策したことがあるが、そこには昔と変わらない生活があり、周辺は青々とした水田が広がり、小川では裸んぼうの子供たちが水遊びを楽しんでいた。中国の田舎の原風景がそこには広がり、なんともいえないほどの旅情をかんじさせるものだった。隣にいたアメリカ人の観光客がカメラをかまえながらーなんて素敵な光景だと言ったことを思い出す。

もちろん、そこに住む人たちは、誰が見ても経済的には豊かだとは言えず、村には電気も水道もなく、遠い昔の日本の原風景を見るようだった。村の人たちは、日が暮れる前に夕餉のしたくをして、真っ暗になる前に食事をしていた。中国人の夕食の時間が現在でも早いのはそのせいでもないだろうが?

水没する多くの村と町の住民を各地に強制的に移住させ大工事の末に、新三峡ダムはとうとう完成した。主な目的は100年か200年に一度の大洪水を防ぐためが第一の目的で、その次は国中で不足する電力を得るため、三番目は渇水する黄河地方の水を補給するためだそうだ。

そのために三国志時代の面影を残す急流の近くの水辺の村や町はいまでは水面下にある。劉備玄徳が最後をむかえた白帝城は川の中に浮かぶ島となって残っているけど、なにもそこまでして三峡下りの船旅を楽しむこともないと思う。ダムのため三国志の時代の面影はあらかたなくなってしまったので、中国人の間でも三峡下りの船旅はあまり人気がない。

今回の三国志の旅も重慶から武漢までの区間は旅程から外してしまった。
余談だが、新三峡ダムが出来た直後に、水没した町の人たちのために出来た町に行き、住民たちに感想を聞いてみた。

僕の質問は――「移住してみてどうですか」「新しい環境になじみましたか?」
主な答えはこうだった――若い人たちは、インフラ完備の快適な生活に感謝している、でも古老は昔の生活が懐かしいとー。

僕たちの旅は、成都からチンリン山脈を経て西安へと

向かうことからスタートしたのである。

チンリン(秦嶺)山脈は半端なく広範囲で、標高2000mから3000mの高い山、高原など日本では想像できないほどの地域に横たわっている。主峰の太白山は3767mで、それ以外に多少低くても似たような高い山がたくさんある。

この険しい山脈が四川と中原の間に横たわって黄河、長江、渭水水系の分水嶺となっているので、ここを歴史をたどりながら旅するとなると途中の町で泊まりながら名所旧跡を訪れるしかない。

チンリン山脈はかつては蜀道難という李白の詩に詠われたほどの難所の連続で、ここを軍隊が走破することなど至難の業と言われてきた。昔の人は川岸の壁に穴をうがち木材を敷き詰めて桟道をつくり、人馬を運んできた――これが有名な蜀の桟道である。

鉄道と道路が出来てもチンリン山脈を通りぬける成都と漢中の間の旅は時間を要した。トンネルをつくる最新の技術を中国も覚え新幹線と高速道路が開通するのには時間を要したが、その新幹線が2017年に成都から西安、洛陽、鄭州へと通じたのである。

その、出来たばかりの新幹線でまずは成都から広元へと向かった。

中国の新幹線と言えば、上海での事故を思い出す方が多い。
あの時のイメージが強いので、日本人の中国新幹線への信頼度は低いのが一般的であるが――
確かにそれは事実だったと過去形で言わないとならないほど現状は改善されていて、もはや、日本の新幹線と肩を並べるほど安全で時間も正確に運行されている。

考えてみれば、あの上海の事故以来――中国での新幹線の事故はきいたことが無い。
中国の新幹線の駅は、新幹線専用として別に造られておりーそれもかなり大きな駅である。いやいや巨大な駅といったほうがいいだろう。

成都の新幹線専用の駅もご多分に漏れずに巨大な駅舎だった。僕たちはビジネスクラスに乗ったが、これは日本のJRのグランクラスと同じ程度の作りで、それはそれは快適だった。車両には専用の女性のホステスがいてお茶のサービスもしてくれる。

日本と違うのはビジネスクラスの乗客は駅舎にVIP専用のラウンジがあり、そこではお茶もジュースもスナックも無料でその快適な待合室で時間を過ごした。

今回の旅で、新幹線に3区間乗ったけど、すべてオンタイムとJR並の正確さ、駅の作りはバリアーフリー。ビジネスクラスはフルフラットシート、何から何まで至れり尽くせりで――しかも安い。中国と日本の物価の差と比べても、中国の新幹線の運賃はやっぱり安い。

新幹線
新幹線

座席。ビジネスクラスの席は先頭に5席。
座席。ビジネスクラスの席は先頭に5席。

VIPルーム(成都駅)
VIPルーム(成都駅)

成都から次の宿泊地である広元へと新幹線で移動をすることにしたが、僕たちは一つ手前の剣門関の駅で下車した。

それは旅の目的のひとつが剣門関を訪れることで、近いほうが良いに決まっている――
出来たばかりの剣門関の駅舎はきれいでピカピカだった。

まずは腹ごしらえとなり、昼ご飯の食堂を探して駅からドライブをしてみたら、途中にはたくさんの食事処があり――そのほとんどが豆腐料理の店だった。こんな田舎で、

何でこんなに豆腐やさんばっかりが軒を連ねているのかと土地のガイドさんに尋ねると――この辺りは山間部でひろい土地は少ない、でも水だけは豊富でしかもきれいです。だから大豆をつくるのに適した土地なんです――豆腐はここの名産ですと。

ランチはいろいろな豆腐料理のフルコースにした。美味しい。
揚げ豆腐の炒め物、豚肉と揚げ豆腐ときくらげ、家常豆腐そして地元とで採れる野菜がいい。この土地はキノコの産地でもあるらしく、お土産に乾燥きくらげ、キノコがたくさん売られていた、そして馬鹿みたいに安い。

剣門関にいってみた。

蜀と中原との間にチンリン山脈があり、これを越えて軍隊を送るとなると山間の険しい谷を行くしかない。そこに敵の進路をはばむための関をつくれば軍隊の侵入を防げるとなる。

剣門関はそのために造られた。峠の一番高いところに出来た剣門関から見下ろす自然の風景は雄大ではるか遠くまで見張らせる素晴らしい眺めである。

そして誰しも思うことは、これなら敵の軍勢をここで阻止できると。

剣門関
剣門関

剣門関から人口300万人の広元の町は遠くない。
そして広元の近くに蜀の桟道として知られる名月狭古桟道がある。河の崖に一定の距離で穴を斜めにうがち、木を差し込んでその上に板をのせると桟道ができる。これが数百キロも続いていたと言うんだから、気の遠くなるような時間と人力を費やして作ったことがわかる。

それが一部復元されていて、桟道の上を歩くことが出来る。考えただけでも、昔の人たちの苦労がわかるがそこを歩くとなおさらそれを実感する。

広元は意外と大きな町で、まだまだこれから発展するぞうという気概が感じられた。
人口300万の町に対して、こんな田舎と言っては失礼だけどなんと5つ星のホテルが出来ていた。
このホテルの中のあるレストランで四川料理を食べたけど、うまいというしかない。ここでもやっぱり山の幸、きくらげの冷製(ニンニク、香菜、唐辛子と醤油と酢)が抜群。麻辛の冷たい麺、童子鶏、名物のきぬがさ茸などなどみんなおいしかった。

広元から漢中までは新幹線だとわずか44分ほど、山また山の連続でその間には数多くのトンネルがあり、これでもか、これでもかとトンネルが続く。ここを移動するのに、昔は一体何時間かかったんだろうと考えると現代の鉄道技術のすごさもわかる。乗客の90%以上は中国人だとおもえるが、すごく電車は混んでいた――ほぼ満席だった。

漢中は8年ぶりに来た。

大河で知られた漢水(漢江)の上流と下流の真ん中にあるので漢中という町の名前がついている。
漢という国の発祥の地であり、漢字も漢民族もこの漢からきている。

漢帝国はここから起こった――最初の皇帝は中国通ならだれでもご存知の劉邦。
そう、歴史上でもライバル同士の戦いでも名高い――項羽と劉邦のことである。
最初は劉邦は項羽との抗争に敗れ、この地に左遷された(左遷という言葉もこの時に生まれた)。

漢中で劉邦はよき軍師となる韓信とめぐりあい、やがて宿敵の項羽との戦いにも勝利する。
韓信は――背水の陣、韓信のまたくぐりの故事来歴でもしられている国士無双の英雄でもある。

韓信の像
韓信の像

また、劉邦と項羽の最後の戦いの場で生まれたのが四面楚歌という有名な言葉で、劉邦の軍に周囲を囲まれた項羽は、敵の軍隊の中から自分の故郷である楚の歌が聞こえてくるのを知り、自分の負けを悟る。

劉邦は紀元前202年に中国を再統一し前漢と後漢とを合わせて400年の間、漢王朝は続いた。これから、中国全土や中国の主要民族を指す名称として漢が用いられるようになるのだが、漢王朝が滅んだあとに、魏呉蜀の三国の時代は始まることになる。

漢中は盆地にあり温暖な亜熱帯気候で、周りはチンリン山脈と巴山に囲まれた人口350万人の町は見違えるほどの都会になった。昔のことを思えば昔日の感があるが、ご多分に漏れず多くの高層ビルが建築中で、交通渋滞もひどい。

漢の初代皇帝劉邦は高祖といわれ、帝位につくと都を長安に移した。
漢王朝は前漢と後漢とにわかれていると前述したが、後漢は西暦23年に前漢の末裔劉秀が継ぎ、光武帝と名乗った。光武帝は都を洛陽に定めることになるが――光武帝と言えば、日本の倭国へ金印を送ったことで知られている――漢委奴国王――は日本の国宝に指定されている。

漢中は長安からの曹操と益州を奪取した劉備玄徳の挟まれる形となったが、劉備の勝利により、蜀の支配国となる。それがために劉備の死後、丞相の諸葛孔明は漢中に駐屯し北伐の拠点としたのであり、北伐とは魏の国の曹操軍に対する戦いのことである。漢中には五丈原で没したと言われる諸葛孔明の墓がある。

漢中の美味しい料理を紹介しよう。
地鶏の煮込み鍋で随分と手間のかかった料理がある――土鍋で地鶏を蒸して、あとでスープを入れて煮込み、野菜と麺を入れて食べる。冬瓜の煮物、銀杏のハチミツ漬けなど。

地鶏の煮込み鍋
地鶏の煮込み鍋

銀杏のハチミツ漬け
銀杏のハチミツ漬け

冬瓜の煮物
冬瓜の煮物

古戦場の五丈原へ。

車でかなりの距離を移動することになる。
とにかくトンネルが多い――高速道路は海抜800mくらいの高度で、周囲の山は2000mから3000mほどの高さがあり、空気も冷涼である。蜀の国と中原の間に横たわるチンリン山脈は天候も変える――西安や洛陽のある中原は雨が少なく蜀は雨が多い。

途中で高原の村をバスは走った――高度計を見ると海抜1500mほど。周りはキャベツ畑ばっかりが延々とひろがり高原野菜が栽培され、その広さは尽きることが無いほどだ。

中国の新しい高速道路は快適だ、それがどんどん拡張されている。
その出来栄えも決して悪くないし、大きな都市や町を結んでいるので便利になった。
しかし、共産主義でも高速は有料だから――いきおい運送業者のトラックは高速代を浮かすために一般道を走ることが多い。そんなトラックのコンボイに遭遇したら、もう大変だ1時間の距離が5時間になるケースもある。

重量オーバーのチェックがあるから、更に渋滞は増すし運転手のマナーも悪い。追い越し禁止なんて守る車を見たことが無い。

中国も良い面ばかりではないことを中国人もよくわかっている。共産党は中国の素晴らしさだけを宣伝する――国土のきれいな風景だけを。それも事実ではあるけど、ある一面にすぎないことを中国国民は理解している。

急激な成長にはかならずひずみがある。日本だって、昔経験してきたことだから人の国の悪口など言えないけど、日本が経験したことを現在の中国人も経験している。

漢中から高速を走り、途中で降りてから一般道を走り五丈原へ到着した。
古戦場へ行く途中は、とんでもない田舎の道を走ることになるが――田舎の風景はある面ではホッとする。道路沿いには昔ながらの中国の農村の風景がひろがり、豊かでなかった時代の農村の生活がいまでもあるけれど、いずれここにも舗装道路ができることだろう。

五丈原は近年、観光地化がすすんでおり施設が整備され見学しやすくできている。入り口に将来の完成予想図みたいなものがあったけど、あまりに公園化されてもなあと感じている。もう、この程度でいいんじゃあないかと――。

諸葛孔明を祀った廟はその後の歴代の皇帝たちにより拡充されて今日に至っている。
彼はこの地で過労のために亡くなったので、塚には衣服と冠が埋められていると言われている。

八掛(軍略)をめぐらし、北伐と称して魏の国と戦った古戦場は丘の上から見下ろすことが出来る。諸葛孔明はここに陣を張り、何度も戦ったけど魏に勝つことはできなかった。

諸葛孔明を好きな人は判官びいきと同じだと思うが、孔明ファンの三国志が好きな人はこの地を訪れる価値があるだろう。

五丈原
五丈原

諸葛孔明の塚
諸葛孔明の塚

五丈原から西安までは160キロ、高速で行くと2時間で到着する。

西安は人口800万の大都会である――だけど他の中国の都会と違うのは町の中心を囲む城壁の内側は開発が厳しく制限されており、古都の趣をよく今日に残している。

現在の城壁は明の時代につくられらもので、それ以前のものではない。
かつての唐の時代の長安の都は現在の城壁の3倍の広さがあり、阿倍仲麻呂の住んでいた時代は、ずいぶんと繁栄していたんだろうと思う。

西安といえば兵馬俑だが、それだけではない。
西安には見どころが多いので、一度の訪問だけではなかなか全部を訪れることが出来ない。

郊外には、楊貴妃の墓、霍去病(かくきょへい)の墓、法門寺などがあるが言い出したらきりがない。旧市街地の散策は半日ほどかけて、のんびりと町歩きを楽しむのもいいし、城壁の上から町を眺めながら散歩をするのもいい。西安も交通渋滞は避けられないけど、地下鉄ができており便利で意外と利用価値がある。

1980年の改革開放の時代から西安へは何度も訪れている。
多くの他の中国の古都は、あまりにも変貌が激しくて戸惑うことが多いが――西安は違う。
確かに整備されたきれいな町並みになった――道路の舗装も、5つ星の高級ホテル、美味しいレストランがたくさんできて快適な滞在が楽しめる――でも、昔の面影も残されている。

中国の古都で一番好きな町は西安である。

楊貴妃の墓
楊貴妃の墓

法門寺
法門寺

楊貴妃の像
楊貴妃の像

西安から洛陽へ。

西安の新幹線専用の駅はきれいでわかりやすく、よくできている。
英語の表示もあるが、日本人なら読める漢字で案内板があるのでガイドがいなくても簡単だ。

一番すごいのは、電車が発着する駅のホームへはそのホームごとの改札があり、出発の20分前にゲートがオープンすることだ。つまり、乗客しかホームには行けない、完全予約制の中国の新幹線プラットフォームは混雑とは無縁である。

西安から洛陽までは新幹線で1時間と39分。
快適な旅だった――時間は正確で、揺れもない――車内の次の駅への告知もわかりやすい。

西安の駅
西安の駅

洛陽も随分と大きく町は変わった。
町の人口は200万人と中国としては小さなほうだが、周囲を加えると800万人ほどの都会で、郊外から町の中心へと向かう車も多く、朝夕の交通渋滞はすごい。もともと洛陽の町の中心は現在の郊外あり、それがどんどん現在の中心に移動してきているので郊外も洛陽の一部なのである。繁華街には有名店の北京ダックの洛陽支店も出ているので、景気はこのまちもいいんだろう。

洛陽牡丹甲天下とは――洛陽の牡丹は天下一だという意味で、この町のシンボルは牡丹であり市の花でもある――だから名所旧跡は牡丹がやたらと多い。洛陽は河南省に属し、渭水と洛水という2つの河が町を流れているおり、いずれも大河で有名な龍門石窟も川のほとりの岩肌に彫られている。

とにかく洛陽へ来たら、龍門石窟を訪れない事には話にならないので、まずは石像群を見学にいった。バスを降りると電動カートが待っていて、3.5kmの道のりを入り口まで送ってくれる――そこから下車して徒歩で1.5kmを歩くことになる。

北魏(5世紀)のころより400年間にわたり営々と彫られてきた石像はものすごい数で見ごたえ十分、なかでも一番の見どころは則天武后をモデルにしたと言われる石像で、なるほど、この通りならなかなかの美人だった言うことがわかるが、とにかく石像だらけで――よくもまあこんなにたくさん彫りも彫ったりと思う。

白馬寺を訪れる。

洛陽の町はずれにあるので中心地からは車で40分ほど、漢の時代に出来た中国の古刹は、漢の武帝のひとつ前の時代に出来たものでとても大事なお寺なんである。

境内は広いので歩いて1時間は必要だが、なかでも国宝の18羅漢は素晴らしいので訪れて欲しいというよりも、僕は白馬時のほうが石窟よりも好きかも知れない。

日本のガイドブックには龍門石窟のことばかりを大きく取り上げているが、かつて、この寺は弘法大師こと空海も修行のために滞在している由緒正しき名所である。

関林堂。

三国志の一番の有名人は諸葛亮かもしれないが、中国人の間の一番人気は関羽かも知れない。
関林堂は魏の曹操が蜀の関羽の首塚を祀ったもので、これが関羽信仰の始まりでもある。

関羽は蜀の国の武将であり劉備玄徳の義兄弟として、忠義をつくした軍人である。
関羽は戦いのさなか、湖北省(現在の州都は武漢でこの近くの長江に赤壁がある)で捕らえられ斬首されたのち、首は呉の孫権により魏の曹操のもとに届けられた。魏の曹操は敵ながらその忠義の人柄を心から好きだったので、その死を悼み洛陽に関羽の首を葬った。

入り口の山門には関林という大きな字が書かれ、林の意味はここでは聖人を意味する。彼の忠義は歴代の皇帝に愛され、慕われ、清の時代に関羽はとうとう聖人としたあがめられたのは、それほどの忠義をつくす人物は関羽の後にはいなかったという証でもある。

実は、他でこのようなケースで林という字がつくのは孔子を祀る孔林だけである。
中国広しと言えども聖人は孔子と関羽だけの二人しかいないことを思えば、いかに関羽が中国人の尊敬を集めたかがわかる。こんなストーリーを知ると、僕も関羽のことが好きになりそうだ。

関羽の祠は中国各地にあるのみならず、横浜の中華街にもある。
彼は商売の神様として祀られているのだが、彼は一介の武人であり商人ではない。しかし、商人は信用が第一であり、限りない忠誠をつくした彼の心は信用第一の商いにあい通じるものがあるのだろう――――とうとう関羽はただの武人から商売の神様までなってしまったのだが、これも三国志という伝説のせいだろう。

洛陽の味。

洛陽と言えは水席料理で有名だ。
乾燥地帯にあるので、水分を多くとる必要から生まれたと言われている。

最初にこの説明を受けると――なあんだ、水分ばっかり飲まされても、お腹はがぶかぶかで他の料理が食べられないんじゃあないか思う人も多い。でも大きな入れ物から自分で好きな味のものを取り分けられるので、そうでもない。水席料理は、数種類のスープが具材を入れて大きなどんぶりで出てくる――おこげの水席、鶏とキノコの水席――いやいや名物にうまいものアリなんである。

でも一番のお奨めは――洛陽王記焼鶏(チキンのパリパリ皮)――で、肉はしっとり皮はパリパリで実にうまいのでお代わりをしたいと思うほど――洛陽に来たら焼鶏にかぎる。なお、空港とかレストランでも真空パックでお土産として売られているが――それが同じ味だとは思えない。やっぱり鶏は焼きたてが一番で、それもちゃんと美味しい店を探してから行くことをお奨めします。

洛陽の料理も基本は辛いものがおおく、四川みたいにすごくは辛くないけど唐辛子は多用するのでピリ辛だと思えばいい。

洛陽から少林寺への道。

高速道路は黄土高原を走る――洛陽の朝夕の渋滞も半端ではなく、市内をでるのに60分ほど要したが、いったん郊外に出ると道路は全く混んでいない。

黄土高原は、日本の本州と同じくらいの広さがあり標高は1000mから1500mで土の厚さが50mから200mもあり、大地は農業が盛んで畑が道路の両側にひろがり、桃や葡萄がつくられていた。やがて道はのぼりが多くなり、山間部へとバスは入り、いくつもの小さな町や村をぬけ、緑の多い禅宗の少林寺へ着いた。

世界遺産でもある少林寺と言えばカンフーで有名だが、周辺には武術学校がたくさんあり6万人ともいわれる生徒が住む、創建495年の古刹で禅宗発祥の地でもある。境内には唐の太宗李世民(りせいみん)が植えたいう銀杏の木も樹齢1500年を数え、いまでも緑の葉を青々と繁らせている。

その近くではお寺の人が銀杏を売っていた――あの大木ならたくさんの銀杏がとれることだろうが、売っているものがその大木の銀杏どうかはわかりません。

少林寺の入口
少林寺の入口

少林寺の
少林寺

この寺で有名な故事来歴は達磨和尚と慧可(えか)との間であった立雪亭での出来事である。

慧可はインドからきた修行僧の達磨和尚に教えを請いたいけど、一向にそれができないので――達磨和尚に尋ねた――どうすれば教えを乞えるのでしょうか――

答えは無理難題で――空から赤い雪が降らない限りは仏法は教えることはできないと言われた――まさにこれこそが禅問答で、そんな赤い雪なんて降るわけがない。そこで慧可は、雪の降りしきる日に自らの腕を切り落とし、雪を赤く染めたそうだ。慧可は禅門の正統を確立した人である。

少林寺は広大な敷地の中にあるので、カートに乗り移動しながらの見学となるが所要時間は2時間から3時間ほど必要。

ランチは近くにある永泰寺で精進料理をいただいた――これも辛いものが多いけど、体にはよさそうだ。

黄河クルーズを体験する。

少林寺からバスで90分ほどで黄河に到着、クルーズを楽しむことにした。
世界四大文明と習っていたせいで黄河と聞くと一度くらいは見てみたいと誰でも思うが実は黄河は川幅だけはやたらと広いけど水深は浅いので、クルーズをするには普通の船では難しい。

乗ってみるとわかるけど、途中は中州もあり、砂浜もありで普通の船では絶対に座礁する。水陸両用のホーバークラフトなら縦横無尽に走れるので問題ない――ほんとうに水は真っ黄色で泥水に近い、中国人にも人気らしく船は満員だっが、なかなか思い出に残る黄河の旅だった。

ホーバークラフト
ホーバークラフト

鄭州へと移動した。

黄河の船乗り場から鄭州まではバスで60分ほど――鄭州は河南省の州都で人口800万の都会である。実は河南省の人口は中国一で経済発展に伴う人口の急増で車を買う人も激増、ところが昔のアパートは駐車場なんてあるはずもなく、町のあちこちが臨時に駐車場と化し――もう、どうにもならないくらいの交通渋滞で、これも中国一ではないかと思うほどの混み具合だ。

さすがに市も手をこまねているわけにもいかず交通緩和のために地下鉄をつくっているのだが、この工事にために更に渋滞がひどくなっている。僕たちは、とうとう街中での夕食の移動をあきらめて宿泊しているホテルで食事をした。

今回の旅は鄭州の観光をするために訪れたわけではなく、帰国のため鄭州から成田への直行便があるので泊まることにしたのである――こんな町からも日本へ直行便が飛んでいることを知らない人も多い事だろう。そしてもうひとつは三国志の主役の一人曹操の住居あとがある許昌を訪れるためでもある。

許昌は鄭州に比べれば落ち着いた感のある静かな地方都市で、喧騒の鄭州からくるとほっとする。高速を降りてから許昌に入る広い一本道路は街路樹が延々と続く美しい並木道となっていて、曹操の丞相府があった古都の面影が感じられる。

かつての平城の跡を訪れると――三国志の舞台ともなった曹操の屋敷跡は昔の資料をもとに復元されている。許昌は平地であり、周囲には山も丘もないので外敵から町を守るために地下に防御のための地下道をつくり武器、弾薬、食料の保管庫としてあった。また、かれの住居跡は三国志時代のエピソードをわかりやすくジオラマにしてある。許昌に来て曹操のことをしると三国志では悪役気味の曹操を好きになるし、良く調べてみると曹操のほうが蜀の劉備よりも英邁な人であったようだ。

関帝廟へ。

関羽は魏の曹操の敵であった蜀の武将だが、ある理由(関羽の仕えた蜀の劉備玄徳の夫人が人質として曹操に捕らえられたおり警護のために同行していた)で曹操軍の客将として許昌をベースにして魏のために大活躍し、曹操もいたく関羽を気に入り、なんども自分に仕えるようにと懇願するほどの思い入れようだった。その関羽が許昌に滞在中に住んでいたところが春秋楼で、ここは曹操が関羽に与えた関羽ゆかりの地である。関羽は主君である劉備のもとに帰るため、曹操に別れを告げたのが橋(覇陵橋:はりょうきょう)の上であったとされ――これも三国志の名場面の一つである。

関羽から曹操への別れと御礼の手紙が彫られているーー関某頓首再拝――関羽、かく言う私は頭を地面にすりつける礼拝を2度繰り返しますー

関羽は彼の死後、天下無双の強者、忠義の人といわれ神格化され――やがて伝説の人となっていく。

三国志の旅は四川の成都から始まり、広元、漢中、西安と続き――洛陽から登封(ドンフォン)の郊外の少林寺、黄河、許昌そして鄭州へ、ここ鄭州旅は終わり河南省の鄭州から帰国の途へついた。

曹操の像
曹操の像

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