【旅のエッセイ】中国・河西回廊の旅

期間:2019年6月5日~2019年6月14日
パーパスジャパン:迫田

GON-001514

シルクロードという言葉はロマンティックな響きがある。
テレビの旅番組では美しい風景を背景に旅情を誘うような音楽がながれ、砂丘に沈む夕日やラクダの群れは悠久の時の流れを感じる。 しかし、本当のシルクロードの旅は危険極まりないとても過酷な長い道だった。

古代のシルクロードは不毛の砂漠が続き、ときおり現れるオアシスだけが喉の乾きを癒した。また途中には雪山をいただくパミール高原などの険しい山脈が立ちはだかり、これらの厳しい大自然の障害を越えて長安とローマをむすぶ東西交易の道だった。

中国のシルクロードの旅というと新疆ウイグル自治区と甘粛省のルートをたどることになる。 中央アジアからパミール高原を越えた最初の町がカシュガルでそこから天山山脈(てんざんさんみゃく)の北側か南側の道をまたは崑崙山脈(こんろんさんみゃく)沿いの西域南道を目的地の長安(現在の西安)に向かうことになる。 途中はタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠を通る過酷で危険な旅路であった。

今回の旅は中国のシルクロードの中で東側半分の河西回廊(かせいかいろう)を旅することになる。

河西回廊とは黄河の西の通り道のことで東は蘭州(らんしゅう)から黄河をを渡り、南に祁連山脈(きれんさんみゃく)、北は内蒙古の砂漠に挟まれ敦煌(とんこう)へと続く回廊で、細長い空間は狭いところでは数キロ、広いところでは100キロほどの全長1,000キロの道のりである。

河西回廊

祁連山脈は長さ2,000km、平均の海抜は4,000mほどで、6,500m級の高い峯が連なり、雪解け水は山麓のオアシス都市である武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、敦煌(とんこう)を潤している。

蘭州には大河黄河が流れている。
中国で長江についで2番目に長い黄河は全長54,646mで甘粛省(かんしゅくしょう)のお隣の青海省(せいかいしょう)のバヤンカラ山脈に源流を発し、深い谷をつくりながら3つの峡谷を抜けた最初の開けた土地である蘭州盆地へ流れ込んでいる。

甘粛省の省都 蘭州は黄河の最も上流に位置する大都市である。

かつて、河西回廊の地域は遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)の支配する土地であった。
匈奴とは紀元前4世紀からほぼ500年間、モンゴリアを根拠にして秦と漢の王朝を苦しめた遊牧民で馬を駆使して戦争をした。 彼らの侵攻に対して幾多の王朝は各地に城を築いて防御を固めた。

秦の始皇帝は大軍を派遣して撃破したが、すぐに匈奴は勢力を挽回した。
漢の高祖(劉邦)は匈奴征伐に失敗して大きな損害を被った。

漢帝国の国力が充実したのが高祖のひ孫にあたる武帝の時代である。
武帝は紀元前141年に16歳で即位して、その治世は55年におよび、政治的、軍事的、文化的にいって前例のない輝かしい時代であった。 この時代に皇帝を中心とする中央集権制度の再構築ができ、古代帝国を最高の形態で完成させた。

張騫(ちょうけん)の西域旅行

中国のシルクロード

シルクロード
シルクロード

漢の武帝はパミール高原の西方(現在のウズベキスタンあたり)に月氏国(げっしこく)があると聞き、張騫を外交使節として送ることにした。

紀元前140年ごろの事である、張騫は途中で匈奴につかまり10年の抑留のあと、チャンスを見て匈奴の土地から脱出して月氏国の王と会い、匈奴を挟み撃ちにすることを提案したが受け入れらず3年後に漢に帰国した。 張騫の足掛け13年にわたる苦難の旅により西域の事情が中国に伝えられた。

張騫の旅は武帝の数ある対外活動の中で最大の歴史的意義を持つ大事業となる。

張騫の像
張騫の像

武帝は懸案の匈奴問題の解決に乗り出し、紀元前129年から対匈奴戦争を開始した各地で大勝した。特に第7回目の戦いでは霍去病(かくきょへい)の活躍で大勝利を収めている。

武帝は征服した河西回廊の地に武威、張掖、酒泉、敦煌の4つの郡を設け西域経営の拠点とした。その時に長城も延長され敦煌の郊外の玉門関(ぎょくもんかん)と陽関(ようかん)を終点としたのだが、玉門関と陽関は漢の武帝の時代、西域の遊牧騎馬民族に対する最前線基地であった。

それを契機にして後年、歴史家によりシルクロードと言われる交易の道ができ、西方からは葡萄、ザクロ、クルミ、アラビア馬、音楽、工芸品がもたらされ、中国からは絹織物がローマへと輸出された。

今回の旅は甘粛省の省都蘭州からスタートした。
現在の人口は340万人、イスラム教徒の回族も多く住む大都市で、黄河のほとりに出来たのが町の始まりである。

黄河沿いの蘭州はものすごく縦長の町で横幅は6kmくらいなのに縦は60kmもある。一番最初に黄河に架けられた橋がここにあり周囲の緑地は市民の憩いの場所である。

蘭州の見どころは実は100km離れた郊外にある。
それがかつてのシルクロードの道筋にある世界遺産の炳霊寺石窟(へいれいじせっくつ)である。石窟は合計183か所あるがその3分の2は唐代のもので、一番の見どころの27mの大仏像は仏教の熱心な信者でもあった唐の則天武后の命によりつくられた。

炳霊寺石窟
炳霊寺石窟

則天武后によりつくられた大仏
則天武后によりつくられた大仏

蘭州からバスで2時間、更に黄河の支流をせき止めて造られた湖(劉家峡(りゅうかきょう)ダム)を高速ボートで30分。ずいぶんと遠いなあと感じたが、ここまで来たかいがあったと思う大規模な仏教遺跡である。門を入ると往復約2キロの遊歩道にはこれでもかというくらいの数の石窟があり当時の仏教の隆盛のほどがわかる。

炳霊寺の途中の風景
炳霊寺の途中の風景

炳霊寺の途中の風景
炳霊寺の途中の風景

仏教は紀元1世紀ごろにインドからシルクロードを経て中国にもたらされた。
3世紀ごろにサンスクリット語から仏典の漢訳が開始され、4世紀になると鳩摩羅什(くらまじゅう)などの努力により経典が訳された。 儒教を基本としていた中国は仏教を取り入れる際にインド仏教の死生観、宇宙観のすべてを同じにしたわけではなかった。特に儒教の基本的なベースである先祖崇拝はインド仏教の輪廻転生とは相いれず、先祖を祀り、位牌を作りやりかたを変えてしまった。

中国仏教には輪廻の思想はない。 儒教の基本的な理念である先祖崇拝と先祖が何だったかもわからない。 生まれ変わりを信じるインド仏教の輪廻転生の思想とは相いれない。 インド仏教は中国で儒教の思想が加わり中国仏教となり、それが日本にも伝えられたことになる。

儒教と言えば孔子を思い起こす。
孔子は周王朝の衰退期に生きた人物で、いまから2,500年ほど前にこの時代は有力な貴族が天から授かった天命により、他の諸侯の上に立つ資格があると主張した。

一般大衆は文盲で、一握りの人が漢字を覚え儒学を学んで行政官僚へなった。 聖人君主とはキリスト教の聖人とは意味が違う、聖人とは昔の良き政治家のことであり、君主とは知識人のことである。聖人君主が政治をつかさどるということである。

その意味では儒教の中身は政治学でもある。 儒教は祖先崇拝だから、先祖を祀ることが重要である。 祖先を崇拝の儀式(お墓や位牌や廟)はインド仏教にはない。 天を祀るーー天は昔から存在し天を祀ることが出来るのは皇帝だけであった。


古代中国では天を天帝とみなし、天はその時代で最も徳のある血筋に統治する権限、つまり、天命を与え、有徳である限り統治させると考えた。 天とは中国人の発明であり、皇帝の時代になっても天下に祭礼を行うことが出来るのは皇帝だけであるとした。 北京の紫禁城の近くにある天壇公園も皇帝が万物を支配する天に五穀豊穣を願う祭祁のためのものである。 かの西太后も天を一番恐れた。

蘭州郊外の炳霊寺の石窟もそんな仏教全盛の時代につくられた。 現在の蘭州の場所に最初に町が出来たのは秦の昭王のころで漢代には金城とよばれた。 蘭州の町が出来たのは隋の時代、西暦で言えば582年である―ーこの時代もう匈奴の時代ではなく、河西回廊も漢民族が支配していた。


蘭州に来たら名物の蘭州牛肉麺を食べないわけにはいかない。

牛肉麺の本家「馬子禄」の入口
牛肉麺の本家「馬子禄」の入口

本物の牛肉麺には条件があるーーまず牛肉という呼び名があるのだが、実はスープと肉はヤクと言う牛の仲間でなくてはならない。 普通の牛の骨からスープを作るのは本物ではないということになる。

麺は手打ちで、しかも面前で手延べをするので麺のサイズを指定できるが、注文をする時なら極細麺ををお奨めする。 生めんはもちもちでのど越しがよく、スープはすごくさっぱりしているので日本人の好みにぴったりあう。 辛い味が好きな方は唐辛子ベースの調味料を足すことになる。

黄河にかけられた最初の橋
黄河にかけられた最初の橋

牛肉麺のあとに飲んだ蘭州特産の「三泡台」というお茶。美味しいのでたくさんお土産にした
牛肉麺のあとに飲んだ蘭州特産の「三泡台」というお茶。美味しいのでたくさんお土産にした

ライトアップされた黄河のほとり
ライトアップされた黄河のほとり

張掖へと向かう

中国の新幹線網はどんどん拡張され、蘭州から張掖へも短時間で移動できるようになった。
出来たばかりの蘭州の新幹線専用駅を出て、しばらく走ると電車は険しい山脈にさしかかり、やがて遠くに雪をいただく峰がみえるようになる、祁連山脈である。 電車は高度を増して、数多くのトンネルをとおり3,200mという一番高い峠を越えるころになると、周りは雪景色になる。

やがて新幹線は高度を下げ張掖の町に着く、所要時間4時間ほどーーこんな険しいい土地を昔の人はどうして旅したんだろうと思う、もちろん迂回して旅したことは間違いないだろう。

完成したばかりの張掖の新幹線専用の駅
完成したばかりの張掖の新幹線専用の駅

張掖は漢帝国の霍去病が匈奴に勝利した時代に出来たオアシス都市で、漢の武帝が張掖群を設置したのが町の始まりである。

現在の張掖はどんどん高層化がすすみ道路が拡張され他の都市と同様に大きく変貌しつつある。この地にはかつて西夏(せいか)という国があり、独自の文化を持ち、自前の文字まであった――有名な西夏文字であるが、現在ではこの文字を読める人は中国でも8名ほどだと言われている。西夏はチベット仏教の流れをくむ寺を建て、元に滅ぼされるまで続いた。

「西夏」の文字が見える
「西夏」の文字が見える

市内の一番の見どころは大仏寺(宏仁寺)で創建が1098年(西夏の元号で言えば永安元年)当時の中国の中心は宋(北宋―紀元960年から1127年)に時代で、この後になり西夏は元に滅ぼされたために、この地も元の支配下となり、ここで元の世祖フビライが生まれている。

この寺に温存され展示されているのが国宝 金泥経(こんでいきょう)で、一見の価値がある。国宝の最初のページには皇帝萬才萬萬才とあるーーなるほど、昔からそう言ったんだ。

このお寺には国宝がもうひとつあるそれが大唐西域記(だいとうさいいきき)で、西遊記のアイデアの基となった玄奘(げんじょう)の残した旅の記録である。

大仏寺(1098年の創建)
大仏寺(1098年の創建)

大唐西域記
大唐西域記

国宝金尼経
国宝金尼経

張掖は祁連山脈からの雪解け水を利用して農業が盛んであり、甘粛省で唯一お米が栽培できる農業が盛んな土地で、この町のレストランでは豊富で美味しい野菜料理が食べられる。

その中に珍しい料理があるーーとても細いネギを使ったもので砂ネギという。 日本でも細いネギは時折見かけるけれど、こんなに細くて小さなネギは絶対にない。

大好きになった地鶏の唐辛子炒め
大好きになった地鶏の唐辛子炒め

砂ネギの料理
砂ネギの料理

こんなネギがどこにあるのかと誰でも疑問を持つので尋ねてみたら、海抜1,200mほどの砂地にだけにみられる珍しい作物であるとのことだった。それを見ることが出来るところがチョウエキの郊外にある丹霞地質公園で、市内から車で1時間ほどにある。 丹霞地形とは赤みがかった堆積岩が形成された地形を意味する。

ここの観光は大きく2か所に別れており、その間は公園内のシャトルバスで結ばれている。

水溝丹霞:見どころは色ではなく奇岩で、しばしばアメリカのモニュメントバレーと比較される。雄大なスケールの岩山の遠くには雪山をいただく祁連山脈が見える。初めてここを訪れた人は一様にその岩山のスケールに驚かさせるにちがいない。

300段の階段を上ると素晴らしい眺望が広がる展望台があるが、その坂道の途中に砂ネギの自生が見られる。そう、あのレストランで出てきた張掖名物の極細の砂ネギである。

水溝丹霞の入口
水溝丹霞の入口

中国のモニュメントバレー
中国のモニュメントバレー

奇岩の連続
奇岩の連続

七彩山:太古の昔は海だったところが隆起してできた岩山の断層が美しい。
岩山にはたい積した塩の層があり、山脈を斜めに走るストライプ模様が太陽の日差しで刻々と変化していくので見る人を楽しませてくれる。 特に朝日や夕日の時間帯は赤みが増し山肌の陰影も濃くなり、眺めるのに一番いい時間である。

七彩山の入口
七彩山の入口

ストライプ模様が見える
ストライプ模様が見える

刻々と色が変化する
刻々と色が変化する

見学は整備された道とシャトルバスで2か所の見どころをくまなく結んでいるので普通の人ならだれでも簡単に見学できるお奨めの観光スポットである。 河西回廊はシルクロードの歴史と文化をたどる旅だけではなく、大自然の美を満喫する旅でもある。

張掖から嘉峪関(かよくかん)へ

張掖から嘉峪関の230kmは日本と何ら変わらない快適な高速道路を利用して移動した。 中国のインフラの整備と拡大の速さにはいつも驚かされるが、今回もこんなところまで片側2車線の高速道路をつくるのかと感心させられた。 道路は有料で近くには高速道路に沿うように一般道路も走っている。 しばらく走行して気が付いたことは高速道路よりも一般道を使うトラックが圧倒的に多いことだ。 理由は簡単だ、高速料金を払いたくないからだーーたとえ時間がかかろうとも庶民はそうしている。

高速道路の左側には雪を頂いた祁連山脈がずっと見え隠れしている。 車中から見える周りの風景は乾燥した灌木地帯でいわゆる砂だけの砂漠とは違うーー 純然たる砂だけの砂漠とは違い灌木や草がある乾燥地帯を中国では、灘(たん)というが、この辺りはゴビ灘(たん)といわれる地域になる。

砂漠によくみられるのが胡楊というポプラの一種で大きくなると高さが15m、幹の太さは2m半にもなる。 途中に小さな村が点在しており、農業を営んでいるのが畑の様子でよくわかる。 祁連山脈が山麓の大地を潤しているのであるーーこの辺りはスナナツメも有名な作物である。

3時間のドライブの後で嘉峪関についた。

現在の嘉峪関の町そのものにはなにも歴史はない。
町の中心にはイスラムの香りのする美食街があり、羊を食べさせてくれる食堂は地元の人たちですごくにぎわっている。

大勢の人でにぎわう美食街
大勢の人でにぎわう美食街

羊の炙り焼きがおいしそうだ
羊の炙り焼きがおいしそうだ

市街地は1958年ごろまではわずか30数件の農家があるばかりの寒村だった。 その後、近所に鉄鉱石が発見され、鉱山ができ、町が拡大されていったという。 計画都市であり、現在の人口は18万人ほどに膨れ上がっている。 経済的に恵まれた財政のおかげで整備された町はきれいである。

現在の町の郊外4kmの地に重要な遺跡があるーーそれが嘉峪関だ。
嘉峪関が出来たのは1372年の明の時代で、城楼のある大きな要塞は高さ11mの城壁にに守られていた。

嘉峪関の入口
嘉峪関の入口

堅固な城壁
堅固な城壁

これが造られた大きな目的は対モンゴル騎馬軍対策であり、併せて長城も要塞に隣接して伸びている。城閣そのものは焼レンガで出来ていたが、城壁はレンガではなく、土と石灰、草木、米のとぎ汁などでかなり頑丈に出来ている。 それでもゴビ灘の自然は厳しく、乾燥と砂嵐のためにたびたび修復が加えられたが朽ち果ててしまったので、現在の城閣は当時と同じように再現されたものである。

池のほとりにつくられた嘉峪関の規模は壮大なもので当時は3,000人の兵士が駐屯していた。 要塞には内城と外城があり、すぐ近くには雪解け水がわき出した池がいまでもまんまんと水を蓄えている。

城閣から見る長城
城閣から見る長城

嘉峪関の関所はここから
嘉峪関の関所はここから

城閣が再現されている
城閣が再現されている

明代の長城の最果ての地に第一墩がある。
墩とはのろし台のことで第一とあるから最果てののろし台ということになるが、ここから長城が始まると言い換えても良い。 第一トンの前は断崖絶壁で、その下は祁連山脈の雪解け水が流れる大きな川が天然の要塞を作っている。 ここからの騎馬民族の侵入は容易ではない。

狼煙台と漢字では書くが、これは合図の際はオオカミの糞を燃やしたからである。 オオカミの糞は燃やすときに黒い煙となるので、はるか遠くまで良く見えるからである。

第一墩は最果ての地
第一墩は最果ての地

うしろにはのろし台の跡がみえる
うしろにはのろし台の跡がみえる

懸壁長城(けんぺきちょうじょう):明代の長城を再現したもので、これもモンゴルの騎馬民族の侵入対策のためである。
かなり険しい山の稜線に沿って長城は作られ一番傾斜の強いところは45度ほどあるから、ここの急な800段の階段を頂上まで登りきるのはかなりきつい。 元気な若者で10分、普通の大人で20分、シニアなら30分ほど必要である。 皆様、ここを訪れたらぜひとも健脚をお試しください。

うしろの長城を登った
うしろの長城を登った

魏晋墓群(ぎしんへきがぼぐん):今から1600年前の支配階級の墓。
1958年に発見されたものの、重要視されず、世間の注目を浴びることもなく、近年それが見直され、まだ多くの地下墓地ががこれからの発掘となる。地下画廊とも言われ、墓の壁に描かれた絵画が当時の生活の様子を現在に伝えている。

こんなすごい遺跡が日本で見つかったら上の下への大騒ぎになるだろうが、嘉峪関や第一トンで遭遇した大勢の観光客は誰一人として見かけなかった。僕たちはそれを貸し切り状態で見学出来たー地下墓地への入り口で入場券を見ただけで地下には誰も監視している人はいなかった。

地下墓地だけに保存状態がとてもよく、割と自由に見学ができ、ここを訪れないで帰るのは本当にもったいない。嘉峪関の観光に来て思わぬ発見だった。

地下の墓の内部は撮影できない
地下の墓の内部は撮影できない

敦煌へ

嘉峪関から敦煌までの高速道路を走る約4時間ほどの道のりは、快適なドライブとなる。
途中、玉門市と瓜州(かしゅう)をすぎるとゴビ灘からゴビ砂漠と変わり、砂ばかりの風景に一変する。

現在の玉門市は唐の時代に出来た町で、漢の時代の出来た玉門関とは違う場所にあるーー玉門関も時代によりその場所を変えていたのである。

ちょうど瓜州でお昼となったので、高速をお降りて昼食をとった。 瓜州はその名前の通り瓜の産地で落ち着いた町だった。

砂漠が見えてからしばらくすると緑のオアシスの風景へが現れ車は敦煌に到着した。
敦煌はかつて沙州と呼ばれたが沙州とは砂漠を意味する言葉である。 町に入ると目立つのが葡萄畑で、特産のお土産としても干し葡萄は人気がある。

敦煌は2100年も前の漢の武帝の時代に河西回廊の4群一つとして砂漠のオアシスに出来た町で西域に対する最前線の軍事拠点としてつくられた。

敦煌まで来るとさすがに世界中からの観光客がすごい。
中国のシルクロードの旅といえばまず敦煌だけは外せないからだ。 今まで、全くと言っていいほど出会わなかった外国からの観光客とも遭遇することになる。 もちろんその中には日本からのツアーも含まれている。

まずは鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げつがせん)を訪れた。
砂丘とラクダ、砂漠のオアシスという3点セットが楽しめる。

敦煌を訪れた人は100%ここに来ることになる。 まるで絵に描いたような砂丘がどおーんとあるので本格的な砂丘を見たことがない人には、これぞ砂漠だと感じるだろう。

記念撮影をした
記念撮影をした

砂丘をバックに
砂丘をバックに

月牙泉はいつも人でいっぱい
月牙泉はいつも人でいっぱい

ラクダで砂丘を一回りしてから月牙泉と呼ばれるオアシスとそこに出来た建物を散策する。
昔はこの小さな泉にしかいない小魚が生息していたらしいが、今でもいるのかどうかわからないーー泉には鯉らしき魚が泳いでいたーー誰かが放流したのかな?

お奨めの宿:敦煌山荘(別名シルクロードホテル)

町の中心から4キロほど離れているが、砂丘がホテルのすぐ目の前にあるので、シルクロードのホテルらしい雰囲気を味わえるホテルとして人気がある。

敦煌山荘の屋上テラスから砂丘が見える
敦煌山荘の屋上テラスから砂丘が見える

異国情緒があふれるデザインで敦煌にはるばるやってきたなあと感じさせてくれる。

屋上のレストランからは砂丘をまじかに見ながらの朝食をとることができ、 陽が落ちると星空とシルエットになった砂丘を眺めながら名産の莫高ワインをいただけるーーまさに至福の時が過ごせる。

陽関(ようかん):敦煌の町から車で1時間ほどのところに陽関がある。
北にある玉門関と南にある陽関の2つの関所は西域からの外敵に対する前線基地をかねていた。 陽関にはよくできた博物館があり、当時の様子を描いた地図や展示品などが置かれ、内部をじっくりと見学するとこの土地の理解が深まる。

写真

写真

西の方 陽関を出ずれば 故人なからんーー
陽関から西の先には酒を酌み交わす友もいないのだからーーという漢詩は日本でもよく知られている。

陽関の跡
陽関の跡

陽関の石碑で記念撮影
陽関の石碑で記念撮影

玉門関(ぎょくもんかん):陽関から車で1時間走ると玉門関がある。
陽関と並び称されるのが玉門関で、近くには漢代の長城と河倉城と同じ時代の武器庫の跡がある。

玉門関の跡
玉門関の跡

陽関と並び称されるのが玉門関で、近くには漢代の長城と同じ時代の河倉城(かそうじょう)と呼ばれた武器庫の跡がある。 2000年以上の時の流れは土台だけを残してすべて廃墟と化し、往時を偲ぶしかない。

漢代の長城
漢代の長城

河倉城(武器庫のあったところ)
河倉城(武器庫のあったところ)

古代の漢詩がここの気候の厳しさを詠っている。
春風渡らず玉門関ーー都を包む暖かな春の光は玉門を越えて遠くのこの地にやってくることはないーー。

砂漠を歩くと小さな草が生えていた―ーガイドさんがこれはラクダ草ともいうんですよーー ラクダは好んでこの草を食べるんですと。

よく見るとたくさんの棘があり、食べにくそうに感じるが棘には塩分も含まれていて、過酷な自然で生き延びるには必要な栄養素もあるそうだ。

砂漠に生えるラクダ草
砂漠に生えるラクダ草

この地に立つとーーろうろうと吹き渡る風、舞い上がる砂塵、夏は炎天下での兵役、冬は極寒の寝ずの番、実に厳しい自然環境の中で過ごした兵士たちの生活を思う。

莫高窟(ばっこうくつ):敦煌市の南東に莫高窟がある。あまりにも有名だから説明する必要もない。 全ての観光がここではシステマティックに出来ており、流れ作業的に誘導される。

まずは屋内に出来たシアターでシルクロードの歴史と石窟の解説が上映されるが、実によくできた映画で理解が深まる。 更に大型バスにのりいよいよ莫高窟の入り口に行くと専門のガイドがむかえ、各国の言葉で詳しい解説をしてくれる。 日本からのツアーは専門のガイドはすごく流ちょうな日本語で案内してくれるからたいへんわかりやすい。

ツアーの場合は8つの石窟の壁画や仏像を見学するが、混雑を避けてガイドがどの石窟を見学するかは決めているようだ。

莫高窟入口
莫高窟入口

莫高窟の中で
莫高窟の中で

希望すれば、別料金で特別拝観が出来る石窟がいくつかある。

僕たちは画家平山郁夫がほれ込んで何度も模写に通ったという石窟を見学した。 拝観料は1人様200元(約3400円)、なるほど美しい菩薩だったーー写真撮影は出来ないので地元のプロの絵かきさんの描いた模写を撮影した。

プロが模写した絵
プロが模写した絵

菩薩は大変な美人として描かれていた
菩薩は大変な美人として描かれていた

とにかくすごい観光客の数で、そのほとんどは中国人。 完全予約制で外国人は入場に旅券の提示が必要である。

河西回廊と言えば敦煌となるから、ここだけは観光のコースからは外すわけにはいかない。
必見の場所だと言われれば誰でも莫高窟だけは見に行くことになる、それだけに大混雑していることだけは覚悟して行ったほうが良い。

敦煌はシルクロードの最大の観光地だから。

                   * * * * *

河西回廊の旅を終えて感じたことは、昔の旅人の苦労とこの地を、騎馬民族の侵入から守るために駐屯していた兵士たちのことだった。

夏は強烈な陽射しが乾燥した大地を照りつけ、ときおり襲う砂嵐に苦しめられ、冬は祁連山脈からの冷たい風が吹きおろす極寒の厳しい自然環境は、そこを旅した人や駐屯した兵士たちの当時の彼らの様子がよく理解できた。

旅はそんなことを肌で実際に感じさせてくれる。
吹き渡る風の匂い、大地の香り、土地の味、住んでいる人たちとの出会い、それは写真やテレビの画面からではわからない。
これだけは、やはり旅をしてみないと実感できない。

是非、河西回廊の旅をされることをおすすめします。

画:迫田
絵:迫田

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