羽田~ヘルシンキ、ヘルシンキ~クラクフはほぼ予定の時間に移動しました。夜間の飛行機座席はプレミアムエコノミーでやや広く、3列の真ん中が空席で端の人も途中から他の席に移動し3席使って横になる。ただし半袖で寒く少し鼻水が出るなど風邪気味。風邪はクラクフ二日目には平常に戻る。
ヘルシンキ乗り継ぎ2時間半あって良かったです。
クラクフ到着第1日、午前10時にホテルに現れたガイドDanutaさんと中央広場、ヴァヴェル城など旧市街を彼女の案内で観光。私は半日4時間くらいの観光と思っていたが、熱心な案内でランチは4時頃で18時過ぎにホテルに戻る。夜間飛行、早朝到着、半袖でも暑い中の観光で時差の関係もありややへばり気味であった。いつもは夜中に2、3回は起きるが、この日は零時前にトイレに行った他は朝までぐっすり眠った。
クラクフ2日目はコシュチュシコ山に行くことがメインであった。プロの山岳ガイドのTanutaさんは、私が市内観光より自然の中を歩くことを好むのを感じ、コシュチュシコ山から見えたキュスッキ361mへのハイキングに誘ってくれた。観光客の訪れるコシュチュシコ山とは異なり森林の中の気持良いウオーキングであった。その後南にあるクラクフの坂271mに行き、反対方向からクラクフの街を眺める。この日も18時過ぎにホテルに戻る。彼女は「観光客はコシュチュシコ山だけ、3つ案内したのは初めて」と言っていた。ドバスライバーなしで、トラム、バスで移動。彼女は路線、時刻をスマホで度々調べていた。苦労かけたと思い多めにチップを渡した。
3日目はバスでなくオシフィエンチム駅に1時間半程かけて列車で移動した。早朝クラクフ駅に行くのに、一般の交通では不便だと彼女のフィアンセに駅近に送って貰った。彼は世界第二の高峰K2のポーランド遠征隊の一員で、プロの山岳ガイドである。クラクフ駅出発直前ホームの変更に気づく。オシフィエンチム駅から博物館までタクシーを使い、帰りは同じルート、乗り物でクラクフに戻った。アウシュビッツでは、広島から来た夫婦と一緒に現地のガイドの案内で博物館、広い構内を見学した。博物館内で他の日本人グループを案内していた”日本人の名物ガイド中谷さん”を見かける。博物館では数百万人の命が奪われたことに大きな衝撃を受けた。戦争になるとこんなことが起こり得る、日本付近も戦争の火種があり、”平和ぼけ”していると大変だと思う。
クラクフ帰着時に、10日目の私のワルシャワ行き乗り場を確認する。駅から彼女の案内で旧市街を歩き、途中で美味しいと言うアイスクリームを食べ、遅いランチを摂った。ホテルへの途中これも美味しいと言うパン屋に寄る。この日も18時過ぎてホテル帰着。この日の交通費は費用に含まれており、一切の出費はなかった。
4日目はクラクフからザコパネへ2時間半かけて専用車(空港に向かえにきた同じタクシー、ドライバー)で移動。到着後Danutaさんから聞いていたホテル近辺の町歩きをした。ザコパネから車で15分程のKryと言う村に”タトラ山脈の自然をを紹介する博物館”が今年5月にオープンした。ホテルに戻ると夕方5時頃、そこでインストラクターもしているDanutaさんが仕事を終えてホテルに来た。私を眺めの良い郊外の丘へ誘ってくれ、翌日登る来カスブロブイ山等を眺め午後7時過ぎホテルに戻る。
6日目 今回のメインとなったカスプロブイ山登山の日です。
1987mまで標高差1000mの登りに私は不安を持っていた。ダヌタさんはそんな私に何とか頂上まで登って欲しいと、山腹にある山小屋に車で働きに行く友人に車でそこまでの同乗を頼んでくれた。郊外の待ち合わせ場所は駐車場がなく、ダヌタさんは彼女が駐車場に車を置き、戻ってくるまで私がそこで待っているように指示して車を置きに行った。その間私がそこで待っていると、通過した車からドライバーが笑顔で手を振り15m程先の停留場で停止した。私は彼が彼女の友達?かと一瞬思う。でもはっきりしなので私はその場を動かずにいた。すると2、3分後そのドライバーが私の所に来てマツキ?(と私には聞こえた)と声かけられた。Myname is Matsuki、your friend Tanuta?と答えるとYesと言う。私のザックを持ち車に向かう。私は後を追いながら何度も自分の名前とタヌタの名前を言う。
その度に頷き、親しげに握手する。私を運転席の後ろに乗せ車がスタート。タヌタさんを途中で拾うのかと思ったが、他の乗客が乗り込んできた。私だけでなく、彼女の友達何人かを纏めて送るのかとも思ったが方向が違う。ダヌタさんに電話したが通じナイ(後で分かったが、trifaのeSimはインターネットは通じるが電話ができなかった)。完全に間違えだと分かり、どこへ行くのか?どうして戻ればよいのかも分からなく困惑。待ち合わせ場所に戻ったタヌタさんは、お客さんがいないことにびっくりしてるだろうと思うと居てもたって居られない。私はパニックになり、運転中の彼に強引にタヌタさんの電話番号を見せて彼女に電話させた。終点直前にようやく電話が通じ、1時間後私は彼女との待ち合わせ場所に戻ることが出来た。
私が間違えて乗った車の行き先は、Morskie(モルスキ?)と言うトレッキング先に向かうものだった。正式な発音は分からないがモルスキと言う行き先が、私には最初の発音がよく聞き取れずマ(モ)ツ(ス)キと聞こえた。私のマツキ,タヌタに彼が頷くので迷いながらついて行ったのだった、、、。
彼女との合流後の時間では登頂は無理、彼女はあちこちに電話して必死になって方法を探ってくれくれた。そのうちに山岳救助隊のレスキュー車が訓練のために山小屋に向かったと言う情報を得た。通り過ぎた時間であったが、幸いにも四人目の隊員の家に寄るのに時間がかかり遅れてレスキュー車が来た。彼女が道路に飛び出し必死に車を止めた。彼女の肩の所の丸い銀色の大きいガイドの公認バッジを見て車が止まった。私たちを後部の荷物置き場に乗せ、車は山小屋を目指した。彼女の説明に4人の隊員(うち一人は若い女性)が大笑い、私は下を向きかき恥じ入っていた。途中小屋までを歩く登山者の羨ましげな視線を受け車道を小屋に向かった。ポーランドと日本のお菓子を交換し、感謝の意を込めた握手で小屋前で下車した。
※去年スペインで脱水症のため、登山してきた家族連れの青年に 助けられた。タクシーの来ない、電話、ネットの通じない山奥の村から救急車で運ばれ大学病院で無料で検査を受けた。今年は山岳救助隊のレスキュー車に乗った。2年続けて不名誉なことだが貴重な経験をした。何度も彼女に謝ったが、その度に「そのことは忘れましょう」と言われた。彼女にとって大変なことをしたと申し訳なく思っている。
登山を始めて15分ほど歩くと、彼女から「街と歩き方が違いますね。山の経験を積んでいるのが分かりますよ」と言われ少し自信を回復した。山に入ると調子が出、彼女が示した登りのコースのうち1時間以上余計に時間のかかる急登のコースを選んだ。一度も休まず稜線に出て遅れを取り戻す。
目的のカスプロヴィ山と稜線続きの2012mのBeskid山にも登った。ポーランド語は分からないが、稜線にいたポーランド人が「日本人は強い」と言っていると彼女は言う。カスブロブイ山では30代の若者が「リスペクトしている。一緒に写真を撮って欲しい」と彼女に言われ、一緒に写真を撮った。写真を撮り終えた後、彼が自分も80になっても山を歩けるようになりたいと言っていると聞き、「頑張って」と握手して別れた。良い思い出となりました。日本では私以上に元気な人はたくさんいるが、平均寿命が70くらいの国では80代で山を歩いては少ないようだ。
下山後、彼女の車で1時間ほどの景色の良い場所に行きタトラ山脈を眺め、帰りに眺めが良く料理が美味しい店があった。彼女が入ったことがないと言うので、そこでポーランド料理を味わう。翌日は月曜日、博物館は休みで周辺を案内すると言われたが貴重な休日を申し訳ない。辞退して第7日目は彼女のアドバイスでザコパネ市街を散策した。ザコパネは木造の建物が多く綺麗な街でした。
8日目は彼女の博物館での勤務日。彼女から博物館へのバスと、博物館から渓谷沿いのハイキングコースを紹介されていた。小雨模様だったがバスでKryに行った。博物館で彼女の案内の30人程の団体に混じり、日本語で補足の説明を受け2時間ほど博物館を巡る。地球、ヨーロッパ大陸、タトラ山脈の生成、氷河、動植物の生態など近代的なモニター等を使い見応えがあった。川沿いのハイキング途中まで勤務を交代したダヌタさんが同行してくれた。途中から一人で歩き、山小屋途中まで10km余を往復し博物館に戻る。勤務終了の彼女が、この先の木造の家の綺麗な街を見せたいと車で連れて行ってくれた。
帰りに古い教会、山岳ガイド始め多彩な人々の墓地を見た。ホテルまで送ってくれた。ホテルでは私が土産に渡した拙書「63才からの歩き旅」のサインを求められ、奥さんと食べてとチョコレートのお菓子を土産に頂いた。日本の山を一緒に登りましょうと言われ、少々悲しい気持で一週間に渉る彼女との行動に別れを告げた。
9日目は空港、ザコパネに来る時と同じ顔見知りの50代のドラーバーでクラクフへ。駅前のホテル到着後、駅へのルート確認に出る。駅へ入り口のスーパーの写真を撮っていたが、スーパーは広大で同じ入り口が三カ所あり駅は地下で戸惑った。
10日目、前日の下見のおかげで早く駅に到着出来た。乗車ホームの変更がないことを確認し(表示が20分前)、それまで1時間以上待つ。僅か17kgのスーツケースを列車に持ち込むのに苦労する。平原の広がる平野を走り、クラクフから流れてきたVISLA川を渡りワルシャワへ。ホテルへの道を旅程に地図で示して貰い、タヌタさんからもモールの反対に750mと教わっていた。しかし地下の駅から出ると、スマホでも方向が分からなくなり、重いスーツケースを持ち地下への階段を上り下りしなければならないと思いタクシーに乗る。2000円くらいと思っていたが、カードの請求は12000円くらいでした。ぼられたかな?と思う。オバナも泊まったと言うホテルは立派、翌日ガイドと駅へ歩くと本当にすぐであった。
11日目、ホテルに来たプライベートガイドBozenaさん(父親の日本大使館勤務で小学3年まで日本にいた)とワルシャワ市内1日観光。移動は市内1日乗車券(これも費用に含まれていた)至る所にショパンの足跡がある感じ。博物館開館まで2時間ほど、コーヒーを飲みながらお互いの家族のことなどを話し時間を潰す。彼女にポーランドの土産など案内してもらい、ポーランド通貨をほぼ使いきる。この日は肌寒く、木の葉も色づき始め昨日まと違い急に秋の気配を感じる。
12日目、家内からのラインでチェコが未曾有の大雨、洪水を知る。天気予報を見るとプラハは真っ赤、大雨、洪水、強風注意報。飛行機が飛ばない場合どう対応したら良いか?ホテルの変更、スニェシュカ山登山はどうなるか?パーパスジャパンに電話。土曜日で月曜日まで連絡が取れない。悲壮な思いで空港へ行く。空港は何事もない様で、多少遅れたが予定通りプラハ着。チェコの旅行手配会社も飛行機の運航をチエックしたようで、アシスタント亜紀さんが来て相談に乗ってくれた。
スニェシュカ山域は入山禁止、麓のホテル二泊をキャンルしてプラハのホテルを新たに自分で探すか予定通り出かけるかの選択を迫られた。麓のホテル(標高1000m)までは行けると言うことで予定通りにする。
第12日目、IBSホテルへに来たアシスタント亜紀さんに15日目から泊まるメトロポリタンホテル、そこからペトシーンの丘へ行くトラムの乗り場、ホテル近くのコンビニ等を案内してもらう。プラハは時折小雨がぱらつくが傘の必要ない落ち着いた天候であった。
ホテルに戻りロビーで話していると、彼女の会社(チェコトラベル)からスニェシュカ山域は入山禁止の情報が入る。彼女は旅行好き、ご主人は山のガイドをしていたとのことで私の今回の旅への思いを理解してくれていた。何とか少しでも歩ける様にと、三日間行動を共にするするガイド兼ドライバーへメッセージをポーランド語で書いてくれた。その内容は行き帰りは観光名所に寄るよりは、丘に行く等ハイキングの様なことを優先して欲しい。
ぺツ・ポト・スニェシュコでも同様、少しでもぺツ・ポト・スニェシュコワ周辺を歩くことを考えて欲しいと言うものであった。私の携帯に導入したeSimは電話が出来ないことが彼女の調べで分り、何かあったらラインで連絡してとお互いをラインのお友達に登録した。私は会社から怒られないか?と心配したが、私的なものにするから大丈夫と舌を出した。このラインでの連絡はチェコを出るまで活用した。
第13日目、ドライバー兼ガイドのガイドのVit Skalik(21才)(発音出来なくカタカナで書けません)と小雨模様の中、高速道を東に向けプラハを出発する。地名は分らないが、その後にやや北西にポーランドとの国境方面を目指す。地図で調べて分からなかったスニェシュカ山のと位置がようやく頭に入る。時折晴れ間が出、もしかしたら登山可能かと期待する。
しかし側を流れる川は増水した濁流、目的地近くから雨。とても途中でハイキングどころではない。ホテル(標高1000m)までの狭い山道、運転が心配だった。スキー場上のしゃれた外観のロッジ風のホテルに16時頃到着した。明日歩くことを考え、荷物整理に1時間近くかかった。ホテル脇の草の斜面に珍しい鳥が来て休んでいるのを窓から見る。
第14日目、朝から小雨模様であった。ガイドのVit Skalikさんが会社とやり取りをして、山麓をウオーキングするコースの許可を取り10時半頃ホテルを出る。ホテルからいきなり200mスキー場を下る。谷底のペツ・ポト・スニェシュコウの村を横切り向かいの斜面を登る。道は森林から自動車道路に出、再び森林の中の登山道になる。途中倒木で道が塞がれ、高牧する危険な箇所をガイドのガイドの助けを借りて通過。濁流の川の脇を通り、Hotelのある丘の中腹で引き返す。
スニェシスニェシュコウの通りからホテルへの200mの登り、私の足では1時間かかるとみた。20分で登りガイドの彼から強い、”good job”と言われた。昨日はつたない英語で会話が弾まなかった。一緒に山を歩き互いの力量が分り心が近くなった。互いにスマホで日本語ーチェコ語に設定して会話した。彼は指輪を嵌めていたが独身、羽田で買ったお土産用ハンカチを”ガールフレンドにあげて”と渡した。彼はモルドバ生まれの彼女の写真を見せてくれた。可愛いと言うとにっこり笑い、彼はありがとうと言った。時間があったので、彼は景色の良い丘への散歩に誘ってくれた。1時間半ほど歩いて戻ったがホテル近くから強い雨が降り出した。この日は13km程歩いた。
第15日目、朝から快晴、目的のススニェシュカ山は穏やかな山容をくっきりと見せていた。1日ズレたら登山出来たかとも思う。でも沢の増水、崖崩れなどの危険もあっただろう。山を遠く感じ、1000mの標高差を登ることに一抹の不安がある私に、神様が危険を避けるよう計らって頂いたと思うことにした。亜紀さんからラインで知らせてくれたスニェシュコウの郵便局に寄り、エアメール用の切手を購入した(昨年スペインで郵便局探しに苦労初したので)。途中どこにも寄らずプラハのメトロポリタンHotelに着いた。午後はホテル近辺の旧市街を散策する。
第16日目快晴、亜紀さんから譲って貰った市内一日券を使いトラムでペトシーンの丘を往復した。トラムはドロウハ-・トウシダからカレル橋を渡りウーイエズド停留所へと走る。迷路の様な坂道を辿り318mの山頂公園に着く。その上に建つエッフェル塔を小型にした60mの塔に歩いて登る。
展望台からはすぐ近くにプラハ城がみおろせ、プラハの街を360°眺めることができた。下りのリンゴ、梨園の樹林帯の間から煉瓦色のプラハの美しい町並みを垣間見る。麓で芝生に寝転び30分程昼寝した。夕方にはホテル近辺を散策した。
第17日目、最後の訪問国ハンガリー・ブダベストへ向け空港に行く。ターミナル1か2かeチケットに記載がなく不安。送迎ドライバーからどちらか?と聞かれ、ライアンエアー4143と言う。それなら2だとターミナル2で降ろされた。ターミナルの出発便掲示板にはライアンエアー4143の表示がない。ターミナルが違うかと思ったが、同時刻にブダベストに出発する便がある。運行運行便かとその便のカウンターに並ぶ。順番が来てカウンターに行くと矢張り違った。バウチャーに印字された航空券を持ちインフォメーションに行く。ライアンのカウンターを聞くとセキュリテイに行けと言う。セキュリテイにはカウンターが無くスーツケースを預けられない。インフォメーションに戻り、スマホの翻訳を使いライアンエアーのカウンターの場所を尋ねる。教えられた場所はセキュリテイと正反対の端にあった。
格安空港なので良い場所でないと予想していたが、セキュリテイまでターミナルの端から端への移動。スーツケースを預けてセキュリテイに行く。荷物保証シールを貼り付けたパスポートを返されただけで航空券は渡されない。便名、座席の印字されたバウチャーが航空券と理解する。セキュリテイに戻りバウチャーのバーコード部分を機械に当てるが反応しない。紙の航空券が必要かとまたライアンエアーのウンターに行く。矢張り航空券は必ないと言われ三度目のセキュリテイに戻る。セキュリテイではまた機械に反応しない。係員が来て2、3度やり直してようやく通過。バウチャーが傷んでいたのか?遅れて出発した機種はエンブレム、小型の機内は満席。機内サービスは何もなく、立ち歩く人は一人もいない。窓側の私はトイレに行くことが出来なく辛かった。ブダベスト到着が遅れ、荷物が出てくるまで1時間(こんなに待たされたのは初めて)。ドライバーが帰ってしまうかと気になる。翌日ガイドさんにブダベストではよくある、ドライバーは馴れていて1、2時間は待ってくれると聞いた。
旧市街の中心にあるホテルへは渋滞で空港から1時間近くかかった。ホテルはメイン道路から路地を入った所にある。車が入れず、渋滞で道路に駐車出来ない。ドライバーから スーツケースを受け取り、自分で突き当たりのRAMADAN・・HOTEに行く。チェックインしようとするが要領を得ない。ホテルバウチャーを見せると10m程手前のRAMADAN BY WINDHAM CENTERに導いてくれた。 ホテル入り口は通路左側の自動ドア、フロントは正面左側の階段2、3段上がった奥で通路からは見えない。 ここがホテルとは思わなかった。ホテル表示はドア奥、日本と異なりホテル表示は注意してみないと見過ごすことが多い。今回もその経験をした。時間があったのでメインの道路に出て地下鉄フェレンツィエク・テレ駅まで歩き、スーパーで買い物をしてホテルに戻る。
18日目、ガイドAngelikaさんと道路で待っている車に乗り込む。 他に乗客がなくラッツキー!プライベートツアー。オペラハウス、聖イシュットヴァーン大聖堂、セーチェニー温泉ロビーに寄り英雄広場に行く。水を張りとボートを漕ぎ、冬はスケートリンクになる 広い公園が印象に残る。ハンガリーの歴史を書いたと言う人の像の前で私を撮影。像の右手に触ると文章が上手くなるらしい。私の拙書の話をすると、彼女は通販で購入してくれると言う。
旧市街に戻り、チキンのハンガリー料理を食べる。その後ブダ地区の世界遺産・王宮の丘に行きドナウ川が貫くBUDAPEST市内を眺め、教会に入り内部を見学する。 土産物屋で土産を買い、あらかたハンガリー通貨を使い切る。その後ゲッレールトの丘で再びBUDAPEST市街を眺め旧市街に戻る。 空港へお客さんを迎えに行くドライバーとフェレンツィエク・テレ駅近くで分れる。地下の地下鉄駅の自動乗発券機で翌日の1日乗 を購入した。ここで彼女と別れホテル戻る。 ホテルに戻って1時間後に彼女が私を訪ねてきた。何事かと思ってロビーに行くと、6月から法律が変わり、65才以上は市内交通が無料だと1日券の代金を返しにきたと言う。申し訳ない気持になった。
第19日目、3線あるトラム、3番、2番を利用してドナウ川対岸に行く。途中名所の教会(名前は忘れた)に寄ったが、目的の国会の場所が分らず戻ってエルジューベト橋河畔の市場に行って見た。目指した市場もイメージと違い、大きな単なるスーパーマーケットであった。
午後から土産物屋、飲食店の並ぶ歩行者天国?ヴァーツイ通り(ホテルの直ぐ裏)、くさり橋を往復しエルシューベト橋まで歩いた。天候は回復したが、ドナウ川は茶色に濁り増水した水は両岸の歩行、自動車道路を水面下に隠していた。 水没した船着き場、川の中に留まっている大型船があちこちに見られた。
第20日目、この旅行最後の観光日。トラム1番線で最初の日に行った英雄広場公園に行く。ここで午前中ベンチに座り、芝生に寝転がり背中をハンガリーの大地につけ、空を見上げノンビリ過ごした。 午後一旦ホテルに戻り、夕方周辺を散策し観光の締め括りとした。
第21日目、前日夜遅くバウチャーと日程表の送迎時間の違いに気づいた。それでチェックアウト時間を早めたが、混乱し慌てて1時間早くチェックアウトした。バウチャー時刻に来たドライバーにほっとした。
ハンガリー空港ではフィンランド航空のカウンターがメインの通路からは見えない。構内の地図にも表示がなく困惑した。係員に聞きカウンターが途切れた中央の通路を通ると袋小路がある。その中の右手にフィンランド航空のカウンターが一つだけあった。ヘルシンキでは継ぎ時間が充分にあり体調も整えられた。ヘルシンキからの空路は、2時間かけブタペスト上空に戻り、そこから黒海方面を日本に向かうものであった。 少し無駄に思えたが、乗り継ぎ時間、ワンワールドのフィンランド空港ならこの便が一番良いのだろうと思った。
第22日目、特別なことがなく無事22日間の旅を終えた。