【旅のエッセイ】 東西文明を結ぶ歴史の十字路ウズベキスタン

期間:2014年4月11日~2014年4月18日
パーパスジャパン:迫田

GON-000795

2014年4月11日~18日の8日間、ウズベキスタンの視察へ行っていた。
中国の長安とペルシャを結ぶ交易路のシルクロードの中間点にある国がウズベキスタン、東西文明の交差点、歴史の十字路である。

1991年のソ連解体により、共和国として独立、イスラム教の国ですが政教分離政策により、宗教色はあまり感じられない。

ウズベキスタンは周囲を5つの国に囲まれている。中国との間にあるのがキルギスタンとタジキスタンで南はアフガニスタンとトルクメニスタン、そして北はカザフスタンと国境を接している。そしてアラル海にも面しており大河アムダリアが流れ込んでいる。川上の国々がこの大河から灌漑用に大量に取水してきたのでアラル海はその面積が4分の1になってしまった。

さすがにアフガニスタンの国境近くへ行くには特別の許可がいる。空港、駅などの交通機関の検査や監視は相当厳しいが、そのせいもあり治安はとてもいい。街歩きで言えば、パリやローマのほうがよっぽど危ない。町を行きかう人たちも親切な人が多いと感じた。

4月から直行便が再開され、成田からウズベキスタンの首都タシケントまでウズベキスタン航空は午前10時25分に離陸した。航路は日本海の上空から釜山、ソウルの上をとおり、北京の近くを飛び、やがて砂漠が見えてくる。新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠である。しばらくすると眼下には白い雪をいただいた険しい高い山が目に入る。これが天山山脈であり、長いこと飛んでいても尽きることが無いほど高い山の連なりである。

新疆ウイグル自治区は何度か旅したことがある、懐かしい土地だ。

新疆という漢字は造成された文字で、弓へんは狩猟民族を意味し、土は農耕民族のことだ。三つの一は山脈を表し、アルタイ山脈、天山山脈と崑崙山脈を代表している。真ん中の2つの田はタリム盆地(タクラマカン砂漠)とジュンガル盆地であり、2つの広大な大地と3つの山脈に囲まれた地域に住む狩猟民族も農耕民族もひとつになり、仲良くやっていこうと言う考えのもとに、この字はつくられた。でも、実際は漢民族との確執でもめごとが多いのは周知の事実である。歴史で言うと、かつての東トルキスタンが新疆で西トルキスタンの一部が現在のウズベキスタンである。2つの地域は同じ文化圏というわけだ。

機は右に機種を振り、眼下には大きな町がみえてくるがウルムチだ。新疆ウイグル自治区の首都ウルムチの上空をとおり再び機は左へ機種を向けて飛ぶと、再びタクラマカン砂漠が見えてくる。この同じようなルートを西遊記のモデルの三蔵法師やマルコポーロも旅したのであるが、やがて雪山を超えるとそこはキルギスタン、しばらく飛んで機は降下をはじめるが、 機内アナウンスで目的地に到着することをつげられる。時間通りに機は首都タシケントに到着した。

入国手続きは査証さえあれば簡単だ、もっとも係官はあまり愛想が良くないけど。
税関はちとうるさいので税関の申告用紙は所持金など正確に記入すること。ひとり2枚が必要で1枚はスタンプを押して返してくれる、これは帰国の際に必ず必要でこれを無くすとえらい目に会う。
なお帰国の際は同じ用紙がもう一枚必要で合計同じものを3枚記入することになる。最後の1枚はウズベキスタン滞在中に使用した持ち込み通貨の残額を記入しなければならない。ときどき帰国時に税関で所持金のチェックがあるが、財布の中まで調べられてしまう。ウズベキスタンを訪れた中で一番嫌な思い出は税関である。ぼくは財布の中まで細部にわたり散々調べられた。

首都タシケントの新市街地は

全体の90%をしめており、旧ソ連が計画的に作った街である。しかも20世紀に大地震で多くの遺跡も壊れており、観光としてみるべきものは少ない。まるでロシアのどこかの大都市にいるような気がする。

近年は欧米化もすすみ、こじゃれた店も出来たが、大きな道路と空地、立派な並木道が印象に残る。ここで訪れるべきところはタシケント歴史博物館。ここをじっくりと見学してからウズベキスタンの歴史ある町を観光すると、この国のことがよく理解できる。ガイドの説明を聞きながらおおきな地図(ジオラマ)をみるとこの国の地理も成り立ちもシルクロードの繁栄もよくわかる。ぜひともここで時間を十分に取ってもらいたい。

タシケントから空路1,000キロをウルゲンチまで飛んだ。ウルゲンチは割と大きな町で空港があるのでそこまで飛んだのだが、ここには見るべきものはない。ここから車で45分のところにあるヒヴァという町まで行くためである。

ヒヴァは世界遺産に登録された町で、博物館都市とも言われている。古代ペルシャの時代からカラクム砂漠の出入り口として知られていたが、ここが栄えたのは17世紀からだ。近くを流れている大河アムダリヤが方向をかえ、ヒヴァの近くを流れるようになったのがその繁栄のわけだ。それ以来ここはホレズム地帯の政治、経済、宗教の中心地となった。

写真

この町が英語ではOpen Air Musiam(天井のない博物館)と言われるのがよくわかる。内城とよばれる旧市街地は中世の町がそのままそっくり残されており、内城は周囲を土塁で固めた城壁で囲まれ4つの門しか入り口はない。

周囲わずか2.2キロほどのこの中を散策するのは楽しいもので、街中は実際に人が生活をしている。観光地だからお土産屋さん、お茶屋さん、レストランがたくさんあるが、それ以外に 普通の生活を営んでいる人も多い。東門の城外ではバザールがあり地元の人でにぎわっている。ここのバザールで観光客には買うものなどないが散策するにはなかなかいい。

写真

写真

最初民家を見たときは泥と藁を固めてある土壁を汚いと感じた。しかし、よくよく気候を聞いてみると生活の知恵が活かされている。冬は零下20度、夏は50度にもなることがあるこの砂漠の地はこの土壁さえあれば過酷な気温差をしのぐことが出来るのだ。内部は意外にもちゃんと木造できれいに出来ていた。

ヒヴァの宿: 旧市街地の近くで一番いいホテルはアジアヒヴァである。
ガイドブックでは4つ星、まあ欧米では3つ星だと感じるが、部屋のスペースは広い。桑の木で出来たベッドで悪くはない。4月といえばこの地では春だが、夜はそうとう冷えるので暖房が無いと寒くて寝られない。内城へつながる南門の真ん前にあるので大変便利。

ヒヴァから車でウルゲンチ空港へ行き、空路ブハラへと移動した。

ブハラはいい町だ。

聖なるブハラともいわれ、サンスクリット語で僧院という意味もある。

オアシス都市として栄え、かつては砂漠の商人をして活躍したソグド人の町だった。ソグド人はアーリア系の人種でペルシャ方面からやってきたのだが、中には青い目を持つ人もいる。かつて長安の都では胡人と言われた人たちである。

ブハラはシルクロード交易の要衝だったので継続的にも繁栄したのだが、1220年のチンギスハーンの来襲で町は廃墟となった。しかし16世紀に町はシャイバニ朝の繁栄でよみがえる。シルクロードの面影を色濃く残す町並みはこのころに完成して、今日まであまり変化しないでいる。旧市街地はかなり大きな面積を占めており、ここは見るべき遺跡も多く、散策や買い物を含めるとまるまる一日が必要である。

写真

写真

夕食に新市街地にある地元のレストランに行った。Ismail Gulrukh Bar(イスマイル グルフ バー)という店で、ここの名物はタンドーリ窯で蒸し焼きにした羊である。塩味だけでじっくりと蒸し焼きにした羊のぶつ切りは非常においしいもので、おすすめである。

ブハラの宿: オマル ハイヤーム(Omar Khyaam)
ここの新館がブハラの宿の中で一番いい。ここなら欧米でも間違いなく4つ星である。

ブハラから専用車でサマルカンドへ移動する途中、ティムールの故郷であるシャフリサーブスへ立ち寄った。ティムールはこの国を代表する英雄であちこちに彼の像がある。世界に冠たる有名なティムール帝国を作った人である。サマルカンドは古き都であるがチンギスハーンにより破滅させられた。これを再興したのがティムールであり、現在のサマルカンドがあるのは彼のおかげだ。

写真

ブハラからこの町までの道路は砂漠の中を走るのでウズベキスタンの土地柄がわかる。砂漠と言っても砂丘があるようなロマンテックなものではなく荒地である、灌木が生えているが農業には向きそうもない。町へ着く1時間まえから右手に雪山が見えてくる、さらに緑も多くなり、道沿いの並木道には桑の木が植えられ、なかなかいい風景が現れる。

畑には杏子、プラム、リンゴが植えられ、4月のころはリンゴの花が満開できれい。街中で散策中にナッツを売っているおばさんがいたので、試食してみた。その中に食べ慣れない味のナッツがあったので、これは何かと尋ねてみた。何とそれは杏子の種の中にあるナッツだったが、そういわれればかすかに杏子の香りがした。個人的にはアーモンドなどよりもおいしいと感じたので大量に購入した。帰国後、ともだちにも差し上げて感想を聞いたけど一様においしいと評判だった。

大きな町のバザールに行くとナッツだけを扱う店が集まる売り場があるが、ここには杏子のナッツは売っていなかった。やはりあれは希少品なのかな?バザールではアーモンド、ピスタッチオ、ピーナッツなどが主流であるようだ。彼らはナッツをよく食べるらしいがほかにはドライフルーツがたくさん売られていた。

シャフリサーブスは意外と大きな町で、ティムールの宮殿の後が残されているがそれほど見るものはない。ティムール生誕の地として世界遺産に登録されているので訪れてみたが1336年に生まれたティムールの夢のあとをたどるにはいいかもしれない。

シャフリサーブスから車で2時間半でサマルカンドの町に着いた。

途中は遠くには雪山が連なり、緑したたる牧場を眺めながらドライブはすばらしい、5月はホビーで道端は真っ赤な絨毯となるそうだ。

サマルカンドは大都会だ。人口が50万を超え、首都のタシケントよりもはるかに素敵な町だ。イスラーム世界の宝石、東方の真珠、青の都などこの町を称賛する言葉に尽きない。

もちろん世界遺産に指定されており、見るべき遺産もたくさんある、すごく気に入った。2700年の歴史を持つ都だから当然であろう。町の中心部はよく整備されており、きれいな街並みが続いている。タシケント通りはまるで原宿の表参道みたいである。

写真

写真

この国は政教分離であると申し上げたが、この町には欧州のビールメーカーが技術供与した工場がある。地元を代表するパルサーというメーカーである。そしてそのビール工場のすぐ近くに串焼きの店がある、なんと12店も軒をつらねていて競争が激しいので店はの味はいい。

ここでは地元の生ビールが飲めるのであるが、これがビール好きにはたまらないほどうまい。驚いたのはイスラム教の国なのに豚肉の串焼きがある。イスラム教の国でこんなに自由に豚肉が食べられるのはここだけだろう。ガラスケースの中に串が並んでいるので好みの肉とか野菜を炭火で焼いてもらう。羊、牛、鶏と野菜などを注文して地ビールを飲んで待っていると、アツアツのやつが皿に盛られて出てくる。ほんとにこの国はイスラム教の国なんだろうかと不思議に感ずる。

写真

写真

サマルカンドの宿: アジア サマルカンド
地元のガイドもサマルカンドではこの宿が一番いいと言う。4つ星というランキングだが、欧米では3つ星の上という感じだと思う。

ウズベキスタンはウズベク人が多いからその民族名が国の名称になった。でもほかにも多くの民族が住んでいる。ロシア人、おとなりのキルギス人、タジク人などなど。
ロシア人は旧ソ連時代に移住してきた人の子孫だから外見はまるっきり白人だ。驚いたのは多くのロシア人が国籍はウズベキスタンなのにロシア語しか話さないことだ。まあ、国中でロシア語が通じるのだから生活するには困らないだろう。

ヒヴァは内城(イチャンカラ)を楽しむところ
ブハラは旧市街全体を楽しむところ
サマルカンドは町全体をたのしむところ

ウズベキスタンは面白い。
シルクロードの遺跡を楽しむだけでなく、食事も楽しめる。
ビールもワインもおいしい。

ぜひ一度訪れてもらいたい。

ページのトップへ