ここ十年くらい、仏教、道教、イスラム教、シルクロードを念頭に置いた旅を続けてきましたが、ちょっと気分を変えて、今回は南米にしました。ペルーには仕事で二度訪れています。ボリビアが98番目、パラグアイが99番目の外国になります。
期間:2014年8月9日~2014年8月24日
広瀬 将徳 様
GON-000844
ここ十年くらい、仏教、道教、イスラム教、シルクロードを念頭に置いた旅を続けてきましたが、ちょっと気分を変えて、今回は南米にしました。ペルーには仕事で二度訪れています。ボリビアが98番目、パラグアイが99番目の外国になります。
風邪を引き10日間咳に悩まされましたが何とか快方に向かい16時発のアメリカン便に乗り込みました。風邪の用心の為と高地観光に備え好きなビールを飲まないことにしました。
機内で観た映画は「 All are President's man 」ニクソン大統領のウォーターゲイト事件を暴くワシントン・ポスト紙の記者ふたりの奮闘物語、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンがとても初々しかったです。もうひとつは「 Captain America 」アメリカの破滅を企むが男に部下が「ハイル・ヒドラ」と敬礼する場面が愉快でした。
ロサンゼルス経由、約20時間でペルーのリマ空港に午前1時半着、日本語ガイドのオスカル・キシモトさんの出迎え、日系3世、祖父母は沖縄出身だそうです。
歩いてすぐのラマダ・ホテルにチェック・イン。オスカルさんに、リマに住んでいる筈の、同期入社の友人の所在を探して欲しいと頼みました。
2時間休憩して5時発のフライトに乗り1時間20分でクスコ空港へ。そこで英語ガイドのフリオさんの出迎え、標高3900m、気温3度だそうです。車で「聖なる谷」に向かい、途中三つの村に立ち寄りました。
ピサク村: アルパカ(白い毛)、ヤーマ(白や褐色の毛)、
ビクーニャ(柔らかいクリーム色の毛、最高級)の飼育場、市場を散歩
カルカ村: 観光客向けの土産物市場でインカ王の木彫りマスクを購入、
白壁の明るいカトリック教会のミサを聴く。
インカリナ村: 今年6月にオープンしたばかりというインカ、プレインカの博物館を見学
そしてウルバンバという、聖なる谷の中心都市に到着、標高2800m、クスコ陥落後インカ軍がスペイン軍と最後に戦った拠点だそうです、谷を流れるウルバンバ川はアンデスの雪解け水を太平洋に注ぎ、とうもろこし、じゃがいもなどの穀物を恵んでいる、反対側はアマゾン川に合流して大西洋に注いでいるそうです。
アルパカとヤーマの肉を食べました。食前酒はピスコ・サワー(葡萄蒸留酒)。アルパカを食べた私にフリオさんからカニャソというお酒を勧められて飲みました。アブサンに香りが似ていました。果たしてサトウキビ蒸留酒に消化を助けるハーブ、アニスを溶かしこんだものでした。フリオさんは言いました。「カニャソは胃の中でまだ生きているアルパカを完全に殺します」。初めてアルパカを食べた私の胃の具合を気にしてくれたフリオさんのジョークでした。
セヴィーチェという魚のマリネにはチチャというトウモロコシ発酵酒が合いました。風邪は完治しましたが高地対策上これらの酒の量は舐める程度にしました。ノン・アルコール飲料はコカ茶、マテ茶、チチャムラーダ(黒とうもろこしで作った紫色のジュース)。目に止まったのがコカ・コーラと並んでいる黄色いインカ・コーラ。その販売量が伸びてコカ・コーラが慌てているそうです。
ウルバンバの San Agustin Hotel にチェックイン。
早朝、オリャンタイ・タンボ駅発の列車に乗り、聖なる川に沿って1時間半下るとマチュピチュ駅、シャトルバス30分で標高2400mの高みへ。そこには快晴に恵まれた中、石造の神殿跡と緑色の段々畑の絶景が広がっていました。TV や写真で知っている光景ですが、お袋がくれたバイオ受像機の映像をそれを遥かに超える感動を与えてくれました。3000段あるという石段をほぼすべて歩きました。
マチュピチュはケチュア語で「老いた峰」を意味するそうです。後宮500人という、インカ帝国最強の王、パチャクティが15世紀に建造、巧みな石組(ルミ)は大地震でスペインの建物が壊れた時もアンデスを望む地点で、3650mのクスコに王宮を持つ王にはふさわしくないと思いました。ウィンター・パレス(避寒宮殿)ほうが近いと思いました。スペインのフランシスコ・ピサロ軍はマチュピチュを襲おうとしたが農民に嘘の道を教えられて到達できなかった、その後所在が忘れられていたが、1902年、クスコの農場主アウグスティン・リサラガが発見、1911年米人、ハイラム・ビンガムが所在地を教えたがらない農民に金を握らせて見つけて世界的に有名になった、とフリオさん。
下山してマチュピチュ駅そばの Inti Inn に投宿。
朝からずっとホテルで休憩、午後近くを散歩しているとパチャクティ王の像がありました。三つの動物を伴っています。霊能の象徴であるコンドル、力の象徴であるピューマと知能の象徴である大蛇です。インカの宗教観は、創造主ヴィラコチャの下にパチャ・ママという自然を司る女神、その下に太陽神、月神をはじめとする自然神で成りたっています、とフリオさん。
登山列車で下山、オリャンタイ・タンボ駅で午後7時過ぎにフリオさんと合流、2時間でクスコの San Agustin Hotel にふたたび投宿。
クスコ市内の観光、クスコは臍を意味する言葉でその名の通りインカ帝国の王都だったそうです。アルマス広場にある聖ドミンゴ協会はスペイン軍がコリカンチャ(太陽の神殿)の壁に貼られていた厚い金銀箔を剥ぎ取り破壊して建設したものだそうです。
サクサイワマンというインカ軍2万人がスペイン軍と戦ったという要塞跡を見ました。クスコの都は霊獣ピューマの形をしていてその頭部に当たる所にありました。外壁の底部はジグザグ型で知能を司る大蛇を象徴しているそうです。350トンもある巨石もありました。市内には12角や14角の石が外壁に全く隙間なく埋め込まれていました。インカ文明の建築技術の高さは聞いてはいましたが現物を見るとまさに驚異でした。
夜、民俗舞踊を鑑賞。
クスコのサクサイワマン(インカ要塞)
クスコ発 LAN 便は午前10時半にリマ着、日本語ガイドのオスカルさんと再会、まず旧市街へ。アルマス広場の大統領府で閲兵式を見ました。ミラフローレスレス新興地区を車から眺めて最後がラルゴ博物館。ラルゴ・ラファエルという裕福な個人が発掘、収集したインカ時代に作られたという膨大な数の手つき土器が陳列されていました。人面、神祭具、生活用品、装飾品、家畜、武具など。珍しかったのはさまざまな体位の性行為、出産場面、異星人みたいな像があったことです。土器は文字を持たなかったインカ人の記録、情報伝達手段だったらしいです。また「キープ」という複雑結んだ紐が展示されていましたがこれは結び目で数と情報を記録したものだそうです。
オスカルさんは、頼んでいた友人の消息を確認してくれていました。電話を入れると「脳溢血で倒れたあと腎臓も患い療養中」と元気のない声、会うのを諦めました。彼との思い出を簡単に伝えたのですが彼は私を思い出せないと言いました。ペルーに永住を決めていた彼の記憶と時間の流れが偲ばれました。
私と彼、佐藤繁徳君との思い出です。1988年、農薬顧客との商談目的でペルーに出張した時、彼は日商岩井ペルー支店長でした。彼の案内で農業大臣のマツダ氏に会える栄誉に預かりました。「サトウとは日本人大使館公邸人質事件で最後まで一緒に留まった間柄で今日は先約をキャンセルしてあなたと会っています、“戦友”である彼の頼みは断れませんからね。フジモリ大統領の農業政策はそれまでの過保護を廃止、政府は灌漑を中心としてインフラの整備と企業金融を供与するだけ、輸出ができる強い農家の出現に期待する、です」と流暢な英語で語ってくれました。そしてこう付加しました。「このようにフジモリ政権は世界で最もスモール、かつ最もクリーンだと思いますよ」
オスカルさんの説明です。「フジモリさんのスモール・ガバメント政策は見事に成功しました。農業ではアスパラガスをはじめ果実、野菜の輸出でたくさん外貨を稼いでいます。ジャングルでの石油採掘が実現し国民の生活は豊かになりました。フジモリさんには殺人罪で25年の長期刑が言い渡されました。罪状はテロリストと誤認された山岳民族の虐殺、人質事件で投降したテロリストの銃殺です。しかしあくまで現場の偶発です。グリン・ガバメントも検察が実証しました。贈収賄、汚職は一件も出ませんでした。多くの国民が早期保釈と、お嬢さんのケイコさんの大統領就任を願っています。」
深夜発の LAN 便で、ボリビアのラパスに向かいました。
サンタクルツ空港でワン・ストップして朝5時半にラパス空港に到着。高度4100mで零下3℃、高地登山呼吸を始めました。限界まで息を吐いて吸気には力を入れず自然に肺に充満させるものです。英語ガイドのオスカルさんと車に乗り込むと大きな酸素ボンベがありました。「半分以上の客に使います」とオスカルさん。私は幸いにして結果的にその世話にはなりませんでした。
2時間と少しでペルーとの国境の町、コパカバーナへ。もともとはアユマラ語で「青い石」と呼ばれていましたがスペイン人には発音が難しかったのでこの名になった、とオスカルさん。小さなボートでティティカカ湖に浮かぶ「太陽の島」へ。10世紀に興ったインカ帝国最初の王である「マンコ・クパック」と「ママ・オリッコ妃」の石像に挟まれた石段を抜け坂道を40分歩いて標高4000mの島の頂上に立ちました。広いティティカカ湖を眺望しました。「マンコ」の日本語の隠語の意味を伝えるとオスカルさんは「私たちは、パヒナといいます。男性のほうは、チュピラ、です」。私がその日本語を伝えると「 CH と P の音が同じですね」と笑いました。コパカバーナに戻って食べた鱒の塩焼はとても美味しかったです。
オスカルさんがティティカカ湖の地図を示しながら「ボリビアとペルーは昔は一つはインカ帝国、今も兄弟です。ボリビアがパラグアイ、チリと石油をめぐって領土戦争した時ペルーはボリビアを支援して負け、領土を失いました。それでボリビアはティティカカ湖の半分をペルーに割譲しました。ケチュア語で“ティティ・カルカ”はピューマ・石を意味します」。そこで私は次の説があることを披露しました。「古代インカの人達にはティティカカ湖はピューマが兎を掴まえた形をしているという伝承がある。巨大な湖の形を空から見ることが出来た宇宙人から教わったに違いない」。オスカルさんは「そんな話初めて聞きました。しかし言われてみれば、そちら方が説得力がありますね」。
【ティティカカ湖】
インカ帝国は1532年にフランシスコ・ピサロ率いるスペイン軍に征服された。その支配からボリビアとして独立したのは1824年、ベネズエラ人のシモン・ボリバールがスペインに抵抗して、ベネズエラ・コロンビア・ペルー・ボリビア・エクアドル5カ国を一国として独立運動を興した時。ボリビアの国名は彼の名に因んでいる。民族構成は多数のアユマラ族とケチュア族合わせて55%、彼らとスペイン人と混血(メスチーソ)が32%。
エボ・モラレス大統領は、アユマラ族出身で共和制を民族連合国に改組、貧乏なインディオの教育費、医療費援助を軸に生活向上に腐心している。ラパス空港は15年前まで JFK 空港と呼ばれていたほど、新規投資は米国に依存していてジャングルでの石油掘削もそうだったが今は100%自国資本で運営している。豊富なリチウム資源開発には世界中から投資申し入れが殺到しているが大統領は中国と組むとみられている、独裁の人民共和国に共感を覚えているようだから。
以上がアユマラ族のオスカルさんの解説です。アユマラ族の大統領の写真と並べてみます。
クスコに夕方7時半ごろ戻り「サプライズをお届けします」と言われある建物に入るとそこはロープウェイ乗り場でした。眼前に広がったのは電球色に輝く斜面と盆地の夜景でした。4100mから3600mに降りながら展開する絶景は、ネオン色に憧れている私には衝撃的な美しさ、「サプライズ」を超えていました。
クスコのホテル「 Ichiban 」に入ると高年の日本人男性が受け付けてくれました。その人がオーナーの南雲謙太郎氏で、両親が戦後日本政府の奨励策に応じて一家で移住して来たのだそうです。ラパスは「平和」を意味すると教えてくれました。
ラパス空港6時発「アマゾナス航空」に乗り7時にウユニ空港着、英語のガイドのオズワルトさんと運転手のホセさんの出迎え、しばらくして眼前に広がったのが見渡す限りの白い平原(ウユニ)でした。「厚さ10cmの塩が10,000km2という巨大な広さで層をなしている、1-3月の雨季には一面鏡のようになり壮観です、食塩、ホウ素、銀、リチウムの宝庫です」、とオズワルドさん。案内されたのは次のスポットです。
= 鉄道の廃墟: 多くの錆びて壊れた貨車や動輪が砂に埋もれていた。
19世紀には英国が銀鉱石運搬の為、アルゼンチンとペルーの港まで敷設した。
銀鉱は1545年に発見されスペインが採掘を始めていた。
= 食塩工場: 甲状腺肥大予防の為に家庭用に添加するヨードはチリから輸入している。
= インカ・ワシ: インカの家を意味する、トゥマパ火山の噴火で飛んできた
125個の岩の中で最も大きい、その形から「魚の島」と呼ばれる、
サボテンが密生している。
魚の島で旅行社が準備した昼食を食べました。ヤーマ肉の串刺しとキヌアというアンデス古来の穀物、それにはタンパク質、カルシウム、鉄が豊富だそうです。
そこへオズワルドさんのガイド仲間7、8人が合流して談笑しました。オズワルドさんは日本語の男性器と情勢木の隠語を連発して盛り上げていました。「遠くに見えるのがアンデスの峰、アユマラ語の、コーユー・コーユー・カンティール=山・山・光る、をスペイン人は発音できなくて短く“アンデス”としました」とオズワルドさん。そこで私は小学校時代に聞いた NHK ラジオドラマ「ほえろアンデス」に思いを馳せてその主題歌を皆の前で歌いました。
♪響くボンゴ 輝く太陽、走れつばなり(?) ものともせず
インカの王子今ゆけば コンドル羽根をはばたく
正義、正義の風呼んで、吼えろ、アンデス、アンデス、吼えろ♪
拍手を貰いました。彼らはカタカナを聞き取ったようです。いつか言ってみたいという少年の夢が今回叶ったと告げると、良い話を聞きました、とオズワルドさん。別れ際に皆に「アディオス・ボリビアン・チンポズ」とやるとどっと笑顔が崩れ落ちました。
陽が白い平原に沈んでゆく光景は壮観、交響曲が聞こえてきました。夜は満天の星、半休の夜空に地平、天空、地平につながる銀河を産まれて初めて観ました。そしてオズワルドさんに指さして貰った南十字星を、不肖66歳、産まれて初めて見ました。
ホテルは Palacio de Sal (塩の宮殿)
ホテルから90km離れたトゥヌマ山の麓のコケサ村に行き、洞窟の中に子供2体を含む5体のミイラを見ました。スペイン軍がミイラを焼き払った時に難を逃れたものが安置されているとのこと。アユマラ族は遺体は布でくるみ籠にいれてトゥマパ火山の斜面に葬る習慣があり極寒の中にミイラ化したのだそうです。
本日の旅行社が準備した昼食のおかずは魚のオイル煮。
湖畔にあるヤーマの牧場を散歩、少し離れた湿地では20羽くらいのフラミンゴが藻(塩水に生息)をついばんでいました。
Palecio de Sal に連泊。
アンデスの峰から登る旭日を拝んでアマゾナス空港でラパス空港へ着いたのは午前11時。この日はフリーだったのですがガイドのデイヴィッドさんに個人的に市内観光を頼みました。聖ドミンゴ教会、聖フランシスコ教会、大統領官邸など。同じ高地にあるクスコ同様坂が多いですが、遥かに急で、俄か雨のあと石畳の登りでタイヤが激しくスリップ、登りきるのに時間がかかりました。
中心街の一角をデイヴィッドさんが指さして説明しました。「治安が良くない地域です。コカの葉からコカインを作って密売している組織があります。その組織で最大のマフィアの名は Santa Curz です。子供たちに夢を与えるサンタクロースが麻薬をプレゼント?たちの悪いジョークです。
市内から少し離れたところにある Mallassa という奇岩帯を見ました。宇宙飛行士ルイ・アームストロングが訪れた時、まるで月みたいだと言ったので今では「ムーン・ヴァレイ」の方が通りが良いそうです。
ホテルは再び「 Ichiban 」、夕食、酒、飲み物なしで寝るだけの客を相手にしているようです。マーケットで買った缶ビールを飲んで午後3時にベッドに入り、目覚ましが鳴る零時まで爆睡でした。風邪気味でもあり一カ月近く飲んでいなかったビールが3600mの高地で強烈な睡眠薬となったようです。
午前1時にホテルを出て空港へ。出国審査は長蛇の列、1時間以上待ちました。滞っていた理由は出国審査後の麻薬所持検査でした。デイヴィッドさんが昨日話したマフィア「サンタクルツ」の麻薬密売は結構深刻な問題のようでした。
3:40ラパス発の LAN 便は、リマでチリのサンチャゴ行きに乗り換え、乗客の顔つきがそれまでのインディオ計から欧州系にがらりと変わりました。サンチャゴでアスンシオン行きに乗り換えると、乗客の顔はインディオ風の欧州人に変わり、「オブリガード」というポルトガル語が聞こえてきました。ブラジル人かなと思いました。
アスンシオンに着いたのは零時近く、英語ガイドのグスタボ・シュルツさんの出迎えを受けました。DNA の半分がドイツ人、残りがスペイン人、イタリア人、先住のグアラニー人だそうです。運転手のイェゴさんはスペインとグアラニーの混血、その混血が国民の90%近くを占めている、パラグアイには金銀がなく虐殺はあまりなかった、のだそうです。巨漢のイェゴさんを以後「スモウトリ」と呼びました。
ホテルは Las Margarita 、起床から就寝まで25時間という、今回の旅の、ザ・ロンゲスト・ステイでした。
ホテルの朝食時日本人ビジネスマン3人と立ち話しました。ヤンマーの社員で、船や農機具のエンジンをブラジルで作っていて南米中に売り歩いているのだそうです。午後市内観光。アルムス広場、大聖堂、1811年独立の記念博物館、国立英雄記念堂と見ました。
アスンシオンは「母なる都」を意味するそうです。人々は結構肥満、若い人たちも肥満予備軍。ペルー、ボリビアのスペイン語がちょっと違うがという質問に対して、ブラジルとの交流が密で、お金のない多くのブラジル人がパラグアイの大学で勉強していることもあって「ポルトニョール語」が盛んなのだそうです。マリファナとの物々交換取引も国境では行われています、との回答。続けて「石油はとれませんが大河に恵まれ世界最大級の水力発電所が2基あります。大統領はビジネスマン出身、綿と大豆の輸出が増え消費も伸びていて貧しいながらもそこそこ満足だとグスタボさん。
イタウグアという町に行きました。色彩豊かに細かく編まれたレースがたくさん売られていました。町の名が蜘蛛の巣を意味するそうで納得しました。ゴシック建築の教会がありました。
アグレアという町では大きな湖、イパラカイ湖を見下ろすサン・ロレンツォ教会の白壁が紺碧の空に眩しくみえました。対岸のサン・ベルディーノで昼食、金持ちのサマー・リゾート地域、昔ドイツ人が入植した地域だと、グスタボさん。
予定されていたルケという町の観光をキャンセル、アスンシオンから東南に140kmにある、ラ・コルメナという町に切り替えて貰いました。そこが1936年日本人初の入植地だとグスタボさんの情報があったからです。私はパラグアイに日本人移民がいることを恥ずかしながら知りませんでした。
3時間で現地、まずは「日本文化センター」へ、金沢さんという日系3世の女性(祖父母は福島・山形県出身)から入植者の当時の証言集と DVD を頂戴しました。そこに JAICA 所属の日本人若者がいました。パラグアイには30人くらいが日本の情報提供、語学やコンピュータの使い方の指導をしているそうです。若者の海外志向が薄らいでいる中とても頼もしく感じました。「ラ・コルメラの後、1956年にラパス村(平和)に140家族、1960年にピラポ村(魚手づかみ)に239家族、1961年にイグアス村に220家族が入植しました。今パラグアイにいる日系人は全部で3000人くらいでしょうか」と金沢さん。
彼女の父上が経営する農園へ。20町歩の広さにトマト、グレープフルーツ、桃、ネクタリン、キンカン、蜜柑、ビワなどが栽培されていました。「全部アスンシオンに出荷しています。父は小作農で農地が20町歩貰えるということでブラジル移民に応募しましたが、同国が締め切られパラグアイに回されました。牛車と徒歩で11家族81人が到着したのは荒れたジャングル、木を切り倒し、大きな株を抜いて、山を焼き、井戸を掘って農地をつくりました。最初は食べるものといえば、マンディオカという野生の芋だけでした。その後5年間に123家族790人に増えました。戦後は2年連続の昼間空がまっくらになる程のバッタの襲撃で作物を全部食いつくされるという悲惨な経験をしました。また革命軍に馬を盗られ死ぬほどの肉体労働を余儀なくされました。多くがブエノスアイレスへ逃げ出しました、耐えて今残っている日系人は350人です。われわれは日本国軍事政権に捨てられたという恨みはありません」。日本語での説明です。グスタボさんが「この人のグアラニー語は完璧ですよ」というので聞くと金沢さんは「最初スペイン語を覚えようとしたのですがそれでは仕事になりませんでしたから」と説明しました。
次が「田中秀穂写真記念館」、ご主人と一緒に薬局を営む田中さんという女性に話を聞きました。「両親は群馬県の小作農、義父の秀穂が写真好きなブラジルからきた外科医、秀穂は毎朝4時に NHK ラジオを聴き日米戦争の状況を毎日書き物で開拓民に知らせました。情報がいきわたらなかったブラジルでは敗戦を知った人とそれを信じられない人が乱闘し死者も出たというが当地ではそれはありませんでした」。
続けて「過酷な体験もあってクリスチャンになりました。聖書がキリストの振りををしたサターンに改竄(かいざん)される前のキリスト教を信仰しています。1609-1768年にパラグアイで布教活動したイエズス会の宣教師たちもサターンの一面を持っていました」。私が「キリスト教を改竄したのはローマ帝国のコンスタンティヌス5世ですね。イエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本に来る前インド人を虐殺しました。目的が布教ではなく植民地化であると見破った豊臣秀吉はキリスト教を禁止しました」と応じました。そしたら、田中さんは「あなたはキリスト教に関心がおありですね」と彼女が信じているという、エレン・G・ホワイトという宗教家の著した「大いなる希望」と「厳粛な訴え」を手渡されました。信仰心のない私は理解できるか自信がありませんでしたが頂戴しました。そして蜂蜜のボトルも2本頂きました。「ラ・コルメナは蜜蜂の巣箱を意味しますので記念にどうぞ」。
ホテル Las Margarita 3連泊。
アスンシオン空港で別れる時運転手のイェゴさんは「スモウトリ、アディオス・セニョール・ヒロセ」とほほ笑みました。
午後8時半に発ち、マイアミ、シカゴ経由で成田に到着したのは2日後の日曜日午後8時。16日間の旅を終えました。お風呂のきもちいいこと。
【アンデスの花々】
本当に中身の濃い2週間を過ごされましたね。私自身もたくさん勉強になりました。ガイドさんとの関わり方がとても素敵ですね。まるでひとつの小説を読み終えた満足感を得られました。また、いろいろなお話し聞かせてくださいね。ありがとうございます。