ドイツ・ハイデガーゆかりの地を訪ねて

期間:2015年4月14日~2015年4月20日
佐藤 淳孝 様

GON-000921

― ライン川沿いにM・ハイデガーの足跡を訪ねて ―

大学でハイデガーの哲学を学んだ私は、2015年4月、二十世紀を代表するこの哲学者の生涯を念願の現地で辿った。

今は人口八千人のメスキルヒにある、両親と住んだ家や小学校を見たり、広い畑の畦道の一部にある"ハイデガーの散歩道"を歩き、本人が腰かけたという標示のある、今は古くなった木製のベンチを見つけた。

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

スイスやオーストリアの一部にも広がるボーデン湖。
湖上の島は、スウェーデン国王の先祖が持ち、今は財団法人となり遠足の名所にもなっている。スミレや種々の色のチューリップが満開で大きなクロアゲハなどの蝶々がいる温室もあり、植物園のようであった。ハイデガーも、妻となるエルフリーデと来たことがある。

写真

写真

写真

白鳥や鴨がたくさんいるこの湖とライン川とを分ける橋を渡ると、イエズス会立のコンスタンツのハインリツヒ・ギムナジウム(中学・高校)がある。今は生徒数七百人、教職員七十人の学校で、かつてハイデガーはここで寄宿舎生活をして学んだ。

お目にかかった先生は、セネカ時代の古書や活版印刷されたものなど二十五万冊ある特別の図書館に私を案内し、白い手袋をはめて数冊の本や、ハイデガーの両親名などが記されている学籍簿を聞かれた。

ハイデガーは後にフライブルクのギムナジウムに転校後、二十八歳の時に母校のフライブルク大学の礼拝堂でエルフリーデと結婚式を挙げたのである。

写真

三十四歳ごろ建てたトートナウベルクの"山小屋"には、残雪を踏んで近づいたが、傍らに薪が積まれていたり流水を受ける鉢があったりして、人が住んでいる気配がした。ここで三十八歳の時に刊行した大著『存在と時間』が構想されたであろう。また、近くに今もある高さ千百五十メートルの山のスキー場で、滑走していることも写真に残っている。

写真

三十歳代のマールブルク大学教授時代の住まいにも行き、書斎のほかに書庫のような屋根裏部屋にも入った。道を挟んでお気に入りの女子学生のハンナアレントが住んでいた所があり、窓越しに合図していたらしいというのだが・・・。

『シンデレラ』や、頭上に赤いリンゴのような飾りをつけた『赤ずきん』などの童話があるグリム兄弟もこの大学で学んだ。大学の向こうの正には古城があり、坂道の"メルヘン街道"の方を下ると、両側には、書籍、文具、玩具、衣装、工芸品店やコーヒーショップなどが立ち並び、各店の二階から上の白い壁には窓を挟んでこげ茶色で彩色された縦、横、斜めの木組みがある。

写真

写真

写真

写真

三十九歳でハイデガーは母校のフライブルク大学教授になったが、哲学研究室や教室が並ぶ廊下を歩くと、毎年五月にある三日間のハイデガー例会のポスターが貼られていて、本人がいるような感じがした。本年は十五くらいの発表があり、五月七日の十六時半からは、 「哲学と人間としての本来的あり方の分析視点外にある医学」が講じられる。死への存在を明確に自覚して、長い過去と先取りできるわずかな将来とを繋げることで、機械的に失われていく時間ではなく、過去も将来も両方に伸びる本来の時間の中で新しい世界を切り開い ていくことを探究したハイデガー哲学が、この大学の医学部の見地からも述べられる。

故郷にあるメスキルヒ城内の博物館では、ハイデガー関係の写真が展示されていたり、一九六三年に法衣をつけた小乗仏教僧のマニとの対談の一部が、四分余りのビデオで見られた。ハイデガーは高くよく通る声であった。また別室では、定評ある和訳の『存在と時間』ではなく、『有と時』という古いものを含む日本のハイデガー全集も展示されていた。

八十七歳の五月に、フライブルクの自宅で亡くなったハイデガーのお墓が故郷のメスキルヒ近くの教会墓地にある。両親の墓碑の真ん中に置かれ、「 MartinHeidegger 」の姓名と生没年が刻まれたものだが、他の墓にはある十字の印が付いていなかったのは、哲学で神を除外した生き方を求めたからであろうか。

写真

写真

写真

ツアープランナーからのコメント

ご旅行の約1年前にお問合せをいただいて、佐藤様のハイデガーゆかりの地を訪れたいという情熱を知り、なんとかこの旅行を実現させたいと思いました。
ドイツでもハイデガーに詳しい人はあまりいない中、ようやく出身校まで辿りつき、貴重な文献を手にとっていただけたことは本当によかったと思います。私にとっても、思い出深い手配となりました。

ページのトップへ