パプアニューギニア&ソロモン諸島8日間

期間:2015年5月2日~2015年5月9日
広瀬 将徳 様

GON-000950

1年くらい前から

諸動作が緩慢、箸使いやボタン留めや歩行が困難になりました。そして昨年11月大学病院で、パーキンソン氏病ではない、パーキンソン症候群、脳の細胞と血管には異常なく、原因が不明で対症療法なしと診断されました。そして少ない確率で、症状の進行を止めるというLードーパミンを毎日服用していますが効果は全くありません。

70%の確率で改善したという情報に基づいて、上海国立誠灸院が開発した頭蓋骨を電気織で刺激する療法を3月と4月に80分 x 42回受けましたが依然として緩やかではありますが症状の進行は止まりません。グループ行動や食事会が苦痛になってきています。

数カ月前に予約していた今回の旅行は、病気なんかに負けてたまるか、という気持ちから、キャンセルすることなく、106,107カ国目の国に向かいました。

PNG(パプアニューギニア)との最初の接点は小学校5、6年生の時朝日新聞に連載されたルポ「ニューギニア高地人」です。今でも覚えているのが、焼いた石で蒸した料理と長老の旋律に村人たちが美しいハーモニイで、唱和する音感の素晴らしさです。そしてその著者、本田勝ーに憧れるようになりました。大学で農芸化学を専攻し山に登るようになったのも或いはどこか本田勝一の後を追ったのかも知れません。

その山のこと、もともとPNGの最高峰であるウィルヘルム山4509mに登る計画を持っていまいした。それまで、登った海外の挑戦的な最高峰、玉山3952m(台湾)、キナバル山4095m(マレーシア)、キリマンジャロ山5896m(タンザニア)に次ぐものでしたが病気の発症で断念しました。ですが、旧日商岩井同期入社でポートモレスビー支店に駐在経験のある二人(田中誠二さん、森和夫さん)から良い国だと聞かされていたのも後押しとなりました。

出発前にその森さんに勧められて、PNGで農業指導を続けている日本人男性をとりあげたTV番組をみました。数千年以上行われている、ある意味効率の良い焼畑農業を、手間暇かかる割には効率の良くない有機循環型農業に切り替えるという、徒労に終わるのではないかという、まさに革命的なプロジェクトをたった一人で、素手で始めた人に大感動しました。井戸を掘り、水路を引き、種を植え収穫する実例を見せ、村人だけでなく囚人や看守たちにまで指導の輪を広げたのです。そして研修センターを設立し若い後継者の育成に乗り出しました。その人、荏原美知勝氏は日本人の誇りだと感じました。

5月2日(土)3日(日) 成田 → パートモレスビ(PNG) → ゴロカ(PNG)

夜9時40分ニューギニア航空で、成田を発ち7時間弱で、翌朝5時にポートモレスビー着。ビザの取得の列に1時間半待ち、蒸し暑い空気とドライバーのカギル(ニックネームはアンドリュー)さんの笑顔に出迎えられました。近くのホテルで朝食をとって、国内便に乗り1時間でゴロカという、人口3万人の町へ。ガイドはムチョ(ニックネームはジョン)さん、ドライバーはディヴィッドさん。皆流暢な英語を喋ります、英国、オーストラリアの植民地だった、現在も英国連邦の一員だそうです。

ダウロ峠からゴロカの村々を俯瞰した後、アサロ渓谷を降り小さな村へ。観客私ひとりの為にショーが始まりました。槍をもった兵士がゆつくり歩いてきて接近し私に向かって矢を放ちます、無論仕草だけですが。そして細い竹で木をこすって、枯草に火をつけもうもうと煙を炊きます。敵対する部族の偵察兵が仲間に攻撃開始の合図をしたのです。すると泥で出来た悪魔の仮面(20kgs弱あるという)を頭にすっぽり被り、槍や弓を持ち、体を泥まみれにしたゾンビ風の7人の男たちが、おどろおどろ しいパフォーマンスを始めます。敵を尻ごみさせる戦術なのだそうです。

その「マッドダンス」が終わるとゾンビのひとりが丸く盛りあがった土を払います。幾重にも重ねられたバナナの葉の下から蒸された鶏肉、サツマイモ、キャッサバ、キャベツ、豆、杉の葉などが現れました。焼いた石で蒸す「ムーム-」でした。ゾンビ男が4時間前から仕込んでくれていたのでした。味付けは塩だけのシンプルな料理、新聞ルポで知ってから、56年後の食感に私の胃袋は大喜びしました。

走っている車は殆ど日本車でその大半がトヨタ車、デイヴィッドさんは「トヨタが売上不振に陥った時、わが国に車を大量に売って赤字を回避したのですよ」と笑いました。ムチョさんがすかさず「日本が、新たに採掘が始まったLNGを大量に購入してくれていること、オーストラリアと並ぶ資金援助国でありますから」とフォローしました。両国がこんなにも緊密な関係にあることを私は知りませんでした。ムチョさんは続けます。「LNGは2m弱掘るだけの低コストで得られるのに圏内でも国際市場価格で売られています。利益はインフラ整備などに使われることなく、採掘会社の Mobil から政治家たちのポケットに入っているのが不条理です」

ムチョさんに国名の由来を尋ねました。「パプアは縮れ毛、英国人が見慣れたアフリカのギニイ(黒人)とは異なる、新種の(ニュー)ギニイ」がその返事でした。デイヴィッドさんにある確信を持ってカマをかけてみました。「もしかしてあなたユダヤ系ではありませんか?」

当りました。「父がインドネシアとの国境に近い村にあるユダヤ人社会の出身です。だいぶ前にイスラエル政府と司教が来てユダヤ教の正統派の末裔であると認知しました。公用語のピシン語とへブライ語の共通語が200以上あります」。ユダヤ人は世界中に住んでいるのですが、PNGにもとは。私が「日本語とへブライ語の共通語もそのくらいありますよ、表音文字のカタカナは22文字が同じです。ほとんどの日本人がそのことを知りませんが」と言うとデイヴィッドさんも同じ驚きを持ったようでした。

ホテル Birdof Paradise (極楽鳥)

ムチョさん
ムチョさん

ゴーストダンス
ゴーストダンス

マッド・ダンス
マッド・ダンス

写真

デイヴィッドさん
デイヴィッドさん

ムームー(蒸し料理)
ムームー(蒸し料理)

写真

ゾンビ
ゾンビ

5月4日(月) ゴロカ(PNG)

今日はグルポカ山ハイキング。小さなサツマイモ、パイナップル、コーヒー、ピーナッツ、バナナなどの畑を抜けて緩やかな登りが続きます。アフリカ最高峰、キリマンジャロに登った私がひいひいでした。後からムチョさんが「イシ、イシ」と声をかけます、「ゆっくり、ゆっくり」でした。私は、ポレポレ(マサイ語)、チョンチョニ(韓国語)、マンマンツォー(中国語)も交えました。

30分のコースタイムが45分かかって山頂、精霊が降臨するという大きな岩の上に十字架が立っていました。「精霊とキリストが仲良くしてますね」に対してムチョさんは「はい、村のルーテル教会が建てました。イスラム過激派とキリスト教徒、ユダヤ教徒もそうなれば良いのですが絶望的ですね」と応じました。全くもってそうですね。三宗教ともノア、アブラハムを始祖とし、エルサレム(平安京)を聖地として共有しているのにです。ジョンさんは続けます。「村人は全員キリスト教徒ですが、精霊と話できる長老の言葉に尊敬の念を持って従います。長老は世襲制で無論キリスト教徒ではありません。」

麓に降りると、また私ひとりの為に、藁製の大きな男根を装着した6人のゾンビ男による踊りが始まりました。「モコ、モコ」と唱和しながらのひくひく踊りです。精霊に豚を生賛として捧げ、楽しませる儀式なのだそうです。モコは男根を意味すると聞いた私が日本語を伝えるとゾンビ達は、「チ○○、○○ポ」に唱和を切り替えました。ムチョさんの村ではそれを「モンコ」というそうで、それに音が近い日本語を伝えると唱和が「manko、manko」に切り替わりました。全くノリの良いゾンビたちです。私は106カ国にして初めて精霊を敬う人々を自の前にしました。

ソンビの中に「オットー」というビスマルク提督のファースト・ネームを持つ人がいました。この国の多くの男性の口の中が赤いのに気が付きました。軽い覚醒剤であるドングリを石灰と一緒に噛んでいるのです。台湾でも人気調品であります。ゴロカの山岳民族の人達の笑ってない普通の顔はその後観察したポートモレスビー、ラバウル、ソロモン諸島の人たちに比べるとかなり怖かったです。数十年前まで殺し合っていた、今も偶発的な殺人が行われていることと関係あるのではと勘ぐってしまいました。

ゴロカという町の名に由来があるか聞いたところ、「英語を理解しない村人が入植してきた英国人に村の名を尋ねられた、たまたま登ってきた旭陽を指差して、ゴロカ=日の出、を口にした」がデイヴィッドさんの答えでした。ムチョさんは、同じようにしてついた村の名に、チム(ようこそ)や、オロ(ようこそ)があります、と追加しました。町に戻って食糧市場を冷やかし、オーストラリア人のマッカシーが建設したという博物館を見学してコーヒー工場へ。そこで、焙煎したばかりの豆と目の前でグラインドした粉を買いました。オーナーは、品種はアラビカ、40年前フィンランド人に技術を学んだと説明しました。

5月5日(火) ゴロカ → ポートモレスビー → ココポ

ムチョさんに「テンキュウ、ヨッキムユー(さよなら)」とピジン語で告げた後早朝の便でポートモレスビーへ。ココポへの乗継便を待つ間に昼食をとっているところへ、家内から電話「妹さんが大地震のニュースに心配している」。傍にいた旅行会社の経営者、上岡さんがすぐ調べてくれました。「午後1時44分5秒震度7.5、ポートモレスビーの北西680km、ココポの南南西130kmの深さ42kmが震源の海底地震、死者負傷者や建物の損壊なし、小規模の土砂崩れの可能性あり」でした。家内にそれを連絡した後、震源に近いココポへ向かいました。

機内で仮眠をとった後大きなくしゃみがでて口蓋の上部に痛みを感じました。大量の汗と冷房のせいでしょうが、さあ、一大事です。今年の冬は年中行事の重症の風邪を引いていません。そんな場合くしゃみが気管支炎に至り、会社を2,3日休むのが常なのです。ホテル Kokopo Beach Bungalow での食事とシャワーの後錠荊を飲みスプレイを喉にじゃぶじゃぶ吹き付けました。案の定、口蓋の痛みとひっきりなしに出る痰の処理、そして数回の地震のせいで眠りが浅かったです。

5月6日(水) ラバウル・ココポ

ホテルの従業員で、ある日本語女性ガイドのハンスさんと日本語を喋るドライバーのチャーチルさん(ビッグ・ネームですね)に最初に頼んだのは両替。銀行で3人の列に並んでキナ紙幣を受け取るまで1時間半かかりました。次が薬局、切れた液薬を買う目的です。守衛が店を関めようとしていたので、いつもの癖で大声をあげました。「ひどい風邪で死にそうだ、薬をくれ」。それでも呼があきそうにないので去りかけたら中国人と恩われる女性が出てきて手招きしました。そして私の症状を開いて、喉痛用の液剤と、気管支炎に備えた抗生物質を処方してくれました。店を閉めようとしてたのは地震で散乱した商品を整理する為だったと言い訳しました。

でこぼこ道に30分揺られると海岸に錆びたハシケが突き出ているのが見えました。その反対側に貯蔵の為の大きな洞穴、格納庫トンネルがありました。かつてのラバウル飛行場跡は黒い砂と雑草が覆われた荒地でした。1994年の火山爆発で避難した人々は20km離れたココポに町を建設したそうです。Yamamoto Bunker (山本五十六長官の地下司令室)、輸送船小牧丸の残骸、戦闘機の残骸を見た後、戦没者の碑に黙祷しました。

ハンスさんに冒頭に述べた農業指導者の話をしたら、チャーチルさんともども目を丸くして「あなたはどうしてエハラ先生をご存じなんですか?私たち研修生に日本語を教えてくれたのはエハラ先生なのです」。何という偶然でしょう。ハンスさんはすぐに電話をかけ「先生は娘さんを病院に連れてゆく予定があるそうで病院で会いましょう」。病院の駐車場で奥さまのローラさん、お嬢さんと一緒の荏原さんに大きな感動を与えてくれたことに謝意を表明することができました。世の為人の為に行動をしたことのない私の偽りのない本心でした。

江原さんは「私は OISCA という組織の職員に過ぎません、あなたの過分の褒め言葉を、ほら、皆せせら笑っていますよ」とあくまで謙虚な方でした。TV番組は無我で自然体の荏原氏を描いていたのですがこう質問しました。「これだけの大プロジェクトです。俺がこの国の農民を豊かにしてやる、俺でなくては出来ないという気概と根性がなくては出来なかったのではないでしようか?」穏和な白鬚の笑顔のご返事は「実は28年前この地を踏んだ時はそういう義務感で肩にかなりの力が入っていました。しかし助けようとした人々に助けられたのはこの私でした」。この「とても偉大でめったにいない普通の日本人」に多くのPNGの人たちがついていったことを改めて得心しました。

朝、口蓋の上にあった痛みが徐々に喉に接近、就寝時には喉を通り過ぎてしまいました。明日は観光を断念してホテルで寝てるしかないな、とフテ寝しました。

ハンスさん
ハンスさん

記念碑
記念碑

農業指導者 荏原さんと奥様とお嬢さん
農業指導者 荏原さんと奥様とお嬢さん

チャーチルさん
チャーチルさん

ゼロ戦のエンジン
ゼロ戦のエンジン

5月7日(木) ココポ → ポートモレスビー

夜中に目を覚ましました。あれれ?奇妙奇天烈、摩詞不思議、喉の痛みが消えて気管支閉塞もありません。熱幣の空気に菌の奴め参ったのでしようか、ざまあ見ろ。
ココポの空港でのチェックインでは3人の列に1時間近く待たされ、挙句の果てに搭乗券は発行されずに、私が提示した、eチケット一覧コピイに座席番号がボールペンで書き込まれただけでした。私はそのローテクでハイタッチのシステムは決して嫌いではないのですが♪

ポートモレスビー空港で、はカギルさんが待っていてくれました。通りには信号が見えず英国の郊外でよくある円形交差点が殆どです。「昔は市街は信号があったのですが、酔っ払い運転で壊されたため。この、ラウンドアバウト、に変わりました」とカギルさん。

Adventure Park で複数の蘭、遠目で極楽鳥を含む野鳥、カンガルー、孔雀、鰐などをみたあと国会議事堂へ。観光客案内の専門職員がいていろいろ説明をしてくれました。20余の小政党の連立与党政権で、野党は2つだけだそうです。他民族国家の特殊なバランスのとり方だと思いました。ホールに練列されていた大きな蝶と蛾は世界最大だそうです。体長30cmはありそうなバッタには流石に恐怖を感じました。

カギルさんのお嬢さんの名はマサコとケイコ、息子さんはタケウチ、日本人実業家のタケウチ氏が観光中に暴漢に襲われた時身を呈して守ったことで親交が深まり日本人を尊敬するようになったのだそうです。日商岩井、双日の名をだしたら、カギルさんはドライバーとして多くの社員の送迎をしたと言います。友人の田中さんと森さんの名を口にするとカギルさんは目を輝かせて、良く覚えていますと言いました。田中さんと森さんはカギル(アンドリュー)さんを覚えているでしょうかね。カギルさんは双日の事務所に案内してくれました。その写真をパチリ。

カギルさんのボスである上向さんの話です。「昔は大手商社が拮抗していましたが上位商社が力を抜いた今は、双日が最強です。3月に安倍首相が来られた時には双日佐藤洋二社長も同行、双日の現地社員の方がたと私どもは不眠不休のサポートを強いられました」と苦笑いした後に「安倍首相のマラッカ海峡を通らないLNGの確保という戦略的物流を双日が担っているわけです」と続けました。その布石の維持継続に奮闘したふたりが田中さんと森さんです。田中さんと森さん、くすぐったい?

その上岡さんは明日の、ソロモン諸島のホニアラゆき便の搭乗券を事前取得してくれました。オーバーブッキング対策だそうですが、航空会社と特別なコネをお持ちのようです。

カギル(アンドリュー)さん
カギル(アンドリュー)さん

写真

双日オフィス
双日オフィス

5月8日(金) ポートモレスビー → ホニアラ(ソロモン諸島、ガダルカナル州)

2時間のフライトでホニアラへ。ガイドのデヴェさん(ニックネームはフランシス)にまずアウステン山にある日本平和公園に案内されました。三度のソロモン海戦で3万人を超える日本人兵士が戦死したそうです。黙祷。記念碑の建設者に住友金属と北野建設の名がありました。住友金属はニッケル鉱山を持っている、北野建設の社長はソロモン海戦で、生き残った戦友(マルヤマ氏)の招きでソロモンで事業を始めた人物だそうです。

谷の反対側の山に建設された米軍記念碑にも行きました。投入された2万人の兵士のうち7000人が死んだそうです。日本政府はPNGに加えソロモン諸島にも多大な援助を行っていることを知りました。マラリア撲滅、病院、道路、水道網、空港の建設など。日本政府の中国牽制外交かなとも思いました。

何故この諸島にイスラエル王の名がついたのかの間いに対し、デヴェさんは「スペイン人探検家Alvaro de Mendana が島にあった金塊をみて、それが伝説上のソロモン王の財宝だと思いこんだ」ことだと説明してくれました。その後の説明に驚かされました。北部のマライタ島で、ぼろぼろのカヌーがみつかり、オーストラリアの文化研究所がイスラエルのものに間違いないと断定、その島の部族のDNA分析でも現代のイスラエル人と間じ因子が存在することを突き止めたそうであります。

Kitano Solomon Mendana Hotel にチェックイン、一週間ぶりの和食に胃袋が癒されました。

フランシスさん
フランシスさん

記念碑
記念碑

5月9 日(土) ホニアラ → ポートモレスビー → 成田

午前11時にホニアラ空港を発ち午後8時に無事に成田着、軽い身体障筈者は多くのひとにサポートして貰って実りある旅ができました。

「戦争を教えない愚かな文部省」と「戦争を語りたがらない親」の所為で「戦争を知らない子供」の私は戦争の傷跡を見学することができました。トゥルー テンキュウ。

上岡ヒデオさん

既に何度か登場いただきましたが、旅行会社「 PNG Japan 」の社長、海外青年協力隊での奉仕活動を経て起業され、現地人の奥様を貰って永住しておられます。この方にとても短い時間でしたが私にとっては中身の濃い話を伺いましたので披露したいと思います。

PNG 高地人は音感が良い
スイスアルプスのヨーデルと同じでしょう、音階の使い分けが重要な情報伝達手段でしょうから。

ゴロカのゾンビ・ダンサーが体に泥を塗る
白い色はこの世のものでない象徴なのです。私の幼い娘は気分のすぐれない時にパッと私の顔と合うと泣きだし、指の聞から私の顔を伺っています。

パプア・ニューギニアの3国支配
島の西半分をオランダが支配、ドイツが東半分の北部を支配しました。海の名にビスマルクという提督の姓を、海から見えた大きな山(3546m)にオットーというファースト・ネームをつけました。小さく低く見えていた最高峰(4509m)には息子の名ウィルヘルムがつけられました。植民地として重要視していなかったイギリスは、ドイツに南下されてオーストラリアに攻め入られると困るので東半分の南部に旗を掲げ統治はオーストラリアに委託しました。

PNGの800を超える部族の中に蒙古班を持つ部族がいる
二つの部族でそれが確認されています。同じメラネシア内のニューカレドニア島で、縄文土器に似た土器が見つかりました。ラピタ人と呼ばれる複数の部族が使ってたようです、と上岡さん。私はメラネシア内のパヌアツで日本の粘土で作られた縄文土器が発見された事実を知っています。上岡さんのインプットを調べてみたくなりました。

撃墜王、零戦パイロット坂井三郎
彼が指揮する宙返り編隊飛行をみたオーストラリア兵士がもう一度見せてくれとビラをまくという長閑な時期もあったそうです。不肖広瀬は、後に大統領になったリンドン・ジョンソン大統領を撃墜寸前まで追いこんだ、この名パイロットの存在を15年前に旧ユーゴスラビア人に教えて貰うまで、知りませんでした。彼の著書「 Samurai 」が世界的なベストセラーになったこともです。同氏は戦後、快適な司令室から若い兵士に自殺命令をだして素知らぬ顔をしている旧幹部たちを弾劾する遊説を継続したそうです。

「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」
私はこの言葉を知りませんでした。ジャワ島では連合軍に勝利したことを、その後ジャワで、平穏な軍隊生活を過ごした親父から聞いていました。ビルマからインドのインパールへ侵攻しようとした、補給線無視の社撰な作戦で9万人が死地に追いやられたことは知っていました。知らなかったニューギニア戦線の上岡さんの説明です。

制海権、制空権とも失った日本軍は島の北部から陸路、高い山脈を越えてオートラリア軍の基地ポートモレスビーに攻め入ろうとした。しかしポートモレスビーに接近した時、理由不明の「転進=逃走」命令に北上してきたオーストラリア軍に蹂躙(じゅうりん)され、わずか1週間分の食糧で数カ月彷徨い戦うという地獄絵図となった。

飢餓とマラリアで多くが死んだ中、敵兵の肉を食うという極限に追い込まれながら奇跡的に救出された西村幸吉さんは73キロを超えていた体重が28キロまで落ちていた。西村さんはそのあと沖縄海戦に参戦、そこでも生き残りピルマ戦線に従軍させられた。軍司令部の作戦失敗を隠匿する為の口封じがその目的だった。戦後ピルマから帰還した西村さんは事業に成功、地方議員も勤めたあと60歳でPNGに移住、20年以上戦友の遺骨を集め続けた。現在94歳でお元気だと聞いています。

日本軍が踏破した道(獣道に近い)は今はココダ・トレイルとして整備されていますが、ウィルヘルム山に登った私でも途中で断念した難路です、と上岡さん。

上岡さん
上岡さん

薩摩藩、長州藩出身の英傑が指揮する軍隊でくすぶっていた三流陸軍軍人、関東軍出身の板垣征四郎と東条英機が起こした、負けると判っていた戦争、それを煽ったマスコミ、止められなかった海軍と議会と天皇、日本人300万人が死に、2発の原子爆弾が投下されて終わった、この歴史的大愚挙は絶対に繰り返してはならないという思いを新たにしました。

ぎょめいぎょじ

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

写真

ツアープランナーからのコメント

いつも立派な旅行記を作成頂き、ありがとうございます。
今回は体調を悪くされたり、地震に見舞われたり、大変なことが多かったかと思いますが、広瀬様ながらの旅の楽しみ方に大変感心しました。私自身もいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。

ページのトップへ