イースター蜂起100年~アイルランド・ダブリン紀行6日間

期間:2016年5月1日~2016年5月6日
H.O 様

GON-001063

Easter Rising 1916-2016

アイルランドがイギリスの圧政から脱却する為にイースターに行われた武装蜂起。歴史の教科書で学ぶしかない遠い世界ではなく僅か100年前に起きたことだ。イースター(復活祭)は春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日とされている為に記念日の様に日は毎年固定されてはいない。

イースター蜂起は1916年4月24日、イースター(復活祭)明けの月曜日に英国支配からの独立を目指すアイルランド人1000人超が武装蜂起し、ダブリン中心部の建物を占拠。英国軍はダブリン市内に砲撃を加え激しい戦闘の末、29日に蜂起軍が投降。蜂起は僅か6日間で鎮圧される。一見失敗に見える蜂起だが、これまでも小さな反乱を起こしながらも鎮圧され続けてきたこととは流れを変えた。

蜂起自体は間際に中止命令が出され参加人員5000人予定が1000人に減少した数字から解るように戦う前から勝利確信があったどころか、仮令鎮圧されようと今起こすことが必要と考えられたのだろう。

今年のイースターは3月だった為、日付的には正確に100年前ではないが政府が主催して記念行事が組まれる。仕事が有る為、この時期には行くことが出来ず今回 GW を利用して Dublin を再訪問した。

*写真は武装の中心となったGPO(中央郵便局)現在も郵便局として機能。雨が多い Dublin だが滞在中ほぼ雨には遭わず、この日は綺麗な飛行機雲を何度も見上げる。

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Dublin 旅行日程

5/1(SUN) 22:30 Narita ― 5/2(MON) 05:15 Istanbul
5/2(MON) 07:20 Istanbul ― 5/2(MON) 09:50 Dublin
5/3(TUE) ガイド付き案内
5/4(WED) Free
5/5(THU) 16:30 Dublin ― 5/5(THU) 22:55 Istanbul
5/6(FRI) 01:20 Istanbul ― 5/6(FRI) 19:10 Narita

今回基本はこれまで通り個人旅行だが二週間前に準備を始めた為に(半ば行くことを断念していた)安全策を取ってチケット手配だけを代理店にお願いした。これまでと違うことは一日だけガイドをお願いした点である。観光ではなく「イースター蜂起」関連について回るので私の英語には限界があった。又、日本に居ては入らない情報を受け取ることも可能だろうと考え、短い滞在時間を有効にする為にもこの手配は良い判断となる。結果、ガイドの方の機転で新しい情報が行く先々で入手出来た。

旅行準備で頭を悩ませたのは気温。10℃を切る日が続く Dublin に何を着ていくのか???一番厚手のトレンチコートに暖かい小物を準備して向かったところ、現地の人もこの一週間は冬に戻った気候だったと教えてくれた通り、街中の服装は春には遠かった。しかし、街は決して黒い服が多くとも暗い印象はなくやはり5月の春。旅行前の危惧を消してくれるかのように着いた日から日中は12℃を越え始め陽射しがある限りは寒さは気にしないで過ごす。

これまでの寒さを帳消しにするかのように朝は雲が厚くても日中は陽射しもあり歩き回るには寧ろ好都合な気温となる。最終日15℃の時は半袖Tシャツ姿が増え、如何に此処アイルランドの気温が全般低いのかが解る。12℃から15℃、この僅か3℃の中に春から夏が在るのだ。前回8月の訪問時に日本人の私が「夏の気温を18℃で寒い」と認識する横で半袖が大手を振るう訳だ。

日程で解る通りタイトな6日間ながら到着日と帰国日夫々に行動する余裕時間があり、特に到着日は荷物を午前中ホテルに預けそのまま街に出るがこれは休日の遅く朝食をとる日と同じ時間帯行動と同じだ。丸二日滞在よりも実感は「丸三日半」で無駄がない充実した滞在だった。

お土産写真で解るように苦笑したくなる程「1916」の世界。この写真が今回の旅行目的を的確に伝えている。私のスーツケースを奪っても本や資料ばかりでがっかりだろう。

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Easter Rising 企画展

写真はイギリス軍から圧倒的な軍事力差で壊滅的な damage を受けた1916年のGPO(中央郵便局)を上部を撮った一枚。

イースター蜂起の中心地がこの GPO だ。義勇軍がこの GPO を HQ に択んだ理由には建物の強度、或いはイギリスへの通信遮断(電報等)が云われているが、実際行ってみるとこじんまりとした Dublin の文字通り中心地に在りその立地に納得する。

最初に行った企画展は、元は「 An Post Museum 」とあったものを100周年に合わせ刷新大きくしたのが GPO 内部で催されていた。通常正面入り口から右手奥に展開している。場所がさほど広くない分常設展にしてほしいところだが確認した現時点ではその計画はないそうだ。GPO 内部で再現ショートムービーを観ること自体が印象に残る。展示には此処に限らず全ての場所でタッチパネルが用意されており実際目の前に展開するよりも遥かに情報が多い。

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この後に国立博物館に移動する。事前に無料と解っていたことも含め、場所が博物館内のやや外れた所だったこともありあまり期待がなかった。実際は回った企画展の中で「 PROCIAIMING A REPUBLIC -THE 1916 RISING 」が展示方法、手紙を始めとした書面等資料が一番充実していた。

GPO の屋根に翻っていた「 IRISH REPUBLIC 」の緑の旗。右上が破れた現状のまま本物が中央に静かに展示されていた。旗だから静かではあるのが当然なのだが、戦利品扱いだったのかイギリスへ持ち去られたものの年月を経て返還された経緯を知ると尚の事その佇まいに「静」ながら「芯」が見えるようだった。この旗の返還経緯に限らず今更ながらだがイギリスがアイルランドに対する態度の傲慢さには怒りがこみ上げるばかり。

今回見ることが出来た中で規模が大きかった企画展は数的には三か所。これから紹介する Ambassador Theatre で開催されていた「 REVOLUTION 1916 」が三つ目だ。場所は GPO があるオコンネルストリート一番北にあり、ストリートが広いこともあって遠くからも看板が見ようとしなくても視界に入る。宿泊したホテルの入口からはすぐの場所であった為この日一番最後に訪れた。ticket が平日でも15ユーロとお高いが此処にはどうしても見たいものがあったので致し方ない。ここの開催期間が当初私の訪問予定8月下旬では微妙だった為このGWに再訪した理由の一つでもある。

当時は Dublin には地下通路が廻らされていたという記事を読んだ。その地下通路が見られるのがこの theater だった。通路というよりも穴に近くさほど高さはない。ガイドの方が詳しい説明を館内の人に聞いてくださったところ、この通路は theater から私が宿泊している GRESHAM HOTEL にも繋がっていた。残念なことにLUAS (電車)の新しい line 工事の為に一部は壊されるそうだ。

この地下道は一旦リフィー川手前で止まるが川を越え Dublin 城まで続く。話では蜂起の為に造られたのではなく Dublin 城から非難の為のものだったと説明がある。この地下通路のお蔭で指導陣は危険から逃れ、マイケルコリンズの顔が中々イギリスに特定されなかった背景とも読んだことがあった。

この theater では他の会場よりもピアースやコリンズらの私物が多く見られた。どの会場にも必ずと云っていいほど当時の自転車があった、実物や写真も含めて。併せて気になったことが其処に小学生くらいの子が居る事。一人二人ではない。ある子の手記に「伝令としての手伝いをしたい」とあるのを読む。

こうした武装蜂起行為は全員一致がみられないことは当たり前だ。市民の中には反対者も居て当然、だが、こうした幼い子にも何かを成したいと考えさせたものがあったことも残されていってほしい。今の Ireland の平和にこのイースター蜂起は大きな起点になっていることを政治情勢で左右されたくない。

IRISH REPUBLIC 共和国樹立宣言書

今回の訪問で original を3枚見る。宣言書の隅に何か記されたところもあったが手に触れられる距離ではないので詳細までは目視出来なかった。

この共和国樹立宣言書は4月24日の復活祭の月曜日(公休日)の正午少し過ぎに GPO の前で蜂起軍の最高司令官、且つ「アイルランド共和国」臨時大統領の Patrick Pear が読み上げた。当時1000枚印刷されたそうだが現存しているのは世界に50枚ほどとされ、そのうち25枚はミュージアムに、残りは個人が所有しているらしい。

「アイルランドの所有権はアイルランド人民にある」
この至極当たり前のことが叶わず英国支配からの脱却のために義勇軍の他に巻き込まれた一般市民の死がある。

 『…我々はアイルランドの領有権と、アイルランドの運命を拘束されることなく支配すること、それが主権をもつアイルランド国民の廃棄することのできない権利であることを宣言する。その権利は長い間外国人と外国政府によって奪われていたが、その権利は消滅しなかったし、また、アイルランド人を撲滅する以外には、消滅されるものでもない。あらゆる世代においてアイルランド国氏は国家の自由と主権を主帳してきた。過去300年の間に6度アイルランド人は武器をもってそれを主張してきた。その基本的な権利の上に立ち、世界を前にして武器をもって再びその権利を主張しつつ、我々はここに主権を有する、独立した国家としてのアイルランド共和国を宣言する。そして、諸国家の中でアイルランド共和国の自由、福祉そして地位の向上の大儀のために努めることを、我々の生命と武器をもって立ち上がった我々の仲間たちの生命にかけて、我々は誓う。…』

 「300年間に6度」の記述にも見られるようにこの蜂起は決して突発的ではなかった。更に付け加えるとその後も独立戦争、内戦と続き、1949年にやっとイギリス連邦を離脱、完全な共和制に移行となる。

チャールズ・スチュワート・パーネルの1885年の演説の一部
「何びとにも、国家の境界を変えることはできない……」

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1916-2016の風景 Ⅰ

二年前には見られなかった風景が至る所に在った。Dublin 滞在中何度も前を通った GPO の中央には手向けられる花が絶えることはなかった。Abbey St. に三か所建物の壁面に関連の絵が描かれていた。北アイルランドのロンドンデリー「 BLOODY SUDAY 」で見られるように壁画は集中してはいないがいい意味で街に溶け込んだ形で自己主張なく存在し、意識しなければ見失いそうになるほど寧ろその自然さが好ましく映る。

こうした街全体の空気を知りたくて赴いた私にとって納得の Dublin だった。扱っている内容は惨劇を伴った重い Rising であるが、日本であればデザイン以前に右にいってしまい人々の共感を得ない顛末は想像に難くない。

右でも左でもなく事実として忘れてはいけないことが歴史の一部である日々の生活で刻印される、日本に欲しい姿勢だ。

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街中の小さな企画展示

「 IRISHMEN AND IRISHWOMEN 」この言葉から共同宣言は始まる。

アイルランドに限らず日本も然り世界中の女性が自由意思を表出させることを禁じられた長く暗い時代があった。この1916年に冒頭で「 WOMEN 」と呼びかけられた意味は6文字に収まり切れない程大きい。今回のイースター蜂起は100周年という大きな区切りに目が行きがちだが蜂起という武器を伴う世界であっても国のあるべき姿を求めることに性差は存在しない。これまでと大きく違う扱いに蜂起に加わった女性の紹介がある。様々な企画展の中で触れられていた。写真は Dublin 城裏での企画展。ここは正しく title 「 WOMEN of 1916 」。

コンスタンツ・マルキエビッチ女史の様に表舞台に立ち華々しく活躍した女性だけではなく看護師を始め蜂起を支えていた人々を Dublin 市内に限らず範囲を全島に拡大しパネル展示をしていた。

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テンプルバーで開催されている企画展を探している途中「電話ボックスにまで?」と写真を撮るが、考えてみると公衆電話ボックスは滞在中見かけてはいない。写真を撮っている最中に中に入った人は一向に出てこない。近くに行くと此処が会場の入り口だった。

普段はギャラリー等で使われているようなそう広くはないスペースに少ないながらも紹介がある。特に目新しい記事がなくともこうした人通りがある処に立地していることでわざわざ赴かなくとも蜂起関連に触れられることに意味があるのだろう。

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最後に図書館内の展示から紹介。日本でいうところの公民館に付属している小さな図書館のような場所だったが近くにPearse駅が在ることが関係してか駅の当日の業務記録が見られたのは大変興味深かった。

写真でも解るように尽く「×」がついており当時の尋常ではない様子が伝わる。頁右側、読み辛い筆記体を書き直し補助してくれる展示者の配慮がうれしい。

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Kilmainham Gaol

やはり、この場所を語らず終わる訳にはいかない。「キルメイナム刑務所」イースター蜂起が4月29日に終焉し日置かず5月3日には英国軍によって最初の銃殺刑が指導者に対して行われた非業の地だ。

正確に語ると今回の再訪では予めネット予約した者だけが入館出来る事に変更され(*既に Dublin 滞在中は全て予約が埋まっていた)今回は外から祈りを捧げるだけとなった。今回の記述は二年前の訪問の様子が中心となることをご了承願いたい。例えば網走刑務所を観光で訪れるか、と問われたなら私は否である。日本二十六聖人殉教の地に足を運ぶようにこのキルメイナム刑務所を訪れたのも祈りを捧げたかったからだ。周囲でまるでアトラクションに来ているよう囚人よろしくポーズの写真を撮っている人達の姿には頭が痛かった。

全体として重い空間は想像に難くないが実はイーストウィングはこの刑務所のことを知らない人も映画やPVで観ている可能性が多少ある。( U2 の PV での撮影は有名。)私は一枚の写真を撮ることも憚られ静かにゆっくりと歩を進めながら自分の中に風景を収めた。

蜂起前の刑務所は大飢饉から過酷さから逃れる為に敢えて罪を犯し毛布と僅かな食事を得るために男女年齢を問わず人が収監されていた時代もあった。あまりに収監数が増え男女共に同じセルに収監されるために風紀も乱れ、後に女性と子がオーストラリアに送られる。セルの上部に小さな窓があったがここにガラスが入ったのは後からだそうで冬の寒さは過酷だったに違いない。イーストウィング他はセルも通路も狭く、そのセルの扉の圧倒的な遮断の強さに気圧される。足元の階段を見るとどれほどの人が歩くとこれ程に丸く研磨されたようになるのかと考えると語られることがない無名の人々の声が聞こえそうだった。

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Stone Bakers Yard を表通りから写した一枚。内部写真は他の資料或いは映画からご覧ください。指導者16人の内14人がここの庭で英国軍に銃殺されてしまった。5月3日、12日に刑が執行されているがこの早い展開をみるだけでも軍法会議が如何に形式だけだったかが解る。

初めてこの中庭に立った時、見上げる青空とこの壁の向こうに市井の生活があることに、こんなにも日常に近い場所で命を奪われた彼らに悲しみでつぶされそうだった。

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最後に救いの一枚を紹介:キルメイナム傍の交差点手前

「 IRISH Republic 」緑の旗がキルメイナム刑務所方向に貼られていた。
「あなたがたを忘れない」と云っているようだった。

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Irish whiskey & Guinness

whiskey が先か Guinness が先か少々悩みながら、今回は JAMESON を訪ねたので title は whiskey を先にした。であるが記述は beer から、失礼。

Dublin は紛うことなく Guinness 城下町である。市内中心地から徒歩圏内に広い敷地の工場を持つ。前回はこの敷地内にある Guinness ストア展望台で出来立ての Guinness をいただいた。

普段はほぼ wine だけの私であるが郷に入っては郷に従え、と無理をして Wine は択ばずに滞在中は全て Guinness で通す。感想はと問われると展望台でいただいた Guinness が日本でも入手可能であれば wine 生活の一部を譲っていいほど格別に美味しかった。

この味情報入手後テンプルバーでも Guinness をいただくが、残念ながらやはり出来立てには及ばない。Guinness を代表するこの「スタウト」と呼ばれる大麦を黒くなるまでローストして上面発酵させて作る過程は日頃口にする espresso を想像させる。Bar にて周囲のテーブルを見渡すとスタウト一色と云うことはなかった。消費量としては1/2を Guinness といわれているが案外とアルコール度数が低い種類が様々楽しまれている。

最初の写真は滞在ホテル横の Ba rカウンタ風景。Guinness をお願いするとどの日も必ず「 excellent! 」と笑顔で云ってもらえたのは楽しい思い出。

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「命の水」と呼ばれる whiskey 、きれいな響きだ。特に Irish whiskey は三回の蒸留をされるために雑味がなく陳腐な表現で申し訳ないが Ireland の澄んだ空気を反映しているよう。スコットランドのラフロイグの様な個性強い whiskey (独特のビートの所為で正露丸に近い香りがする。勿論味には影響なく意外なほど美味)とは対極にある。仮令(たとえ)、忘れられないような独特の香りが無くとも澄んだ空気の元で作られ眠った水は喜びを与える命の水になる。

JAMESON ではツアーに参加せずとも shop で商品の購入やBarの利用が可能。名前は「 Irish coffee 」だが、これは Irish whiskey をベースにしたカクテル。お酒に弱い方には強すぎる可能性がある。単体で whiskey を注文するよりも価格は倍ではあるが、JAMESON での Irish coffee はとても美味しいので機会があれば迷わずお楽しみあれ。

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トリニティーカレッジ図書館

知の書庫。只、字が組まれているどころかその一字一字が時の砂のようだ。

或る意味タイムスリップしたようだった。陳腐な言い回しだが馴染みある図書館とは全く違い、映画セットに紛れ込んだかのような息を飲むの圧倒的異空間。これまで全く目にしたこともない品が目前に在ることと、現在も装丁は違えど普段目にする形の本が在ることは第一印象を変える。

少なくとも形として見慣れている本であるため最初は大きな驚きを持って接する世界とはならないが、一歩ずつ図書館内に進むたびに此処は知っているそれとは違うことを知らされていく。この皮表紙の本を取り巻く当時の環境、つまりこれら中世から以前古の時代には知を伝える、知を残すには書しかなかった。それも印刷技術がない時代は「写す」しかなかった写本の世界。書はこれらの容れ物だった。

ネットで容易に購入する本とは時代の背景、要求があまりにも違い過ぎる。

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隙間なく床から天井にまで届く皮表紙の本、本。この一冊一冊が現代とは異なり時に宝石のように大事にされ読まれてきたことに思いを馳せると図書館でもあり博物館の空間のにも見えた。古の本が在るだけでなくそれらを手にしただろう人々の姿が本の影に感じられるのだ。

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前回の訪問は夏の観光シーズンであったためここケルズの書がある図書館の入口はヴァチカンよろしく長蛇の列だった。今回は全く人が並んでいず、反対に今日は閲覧中止なのかと心配した。上記図書館に入る前に有名な「ケルズの書」のコーナーを廻る。絵画の様な繊細なその文様は解説無しでは全てを読み解くことが出来ない。現代の本とは別次元の本というしかない。修道士らが一文字一文字描いたそれらはこうして文字を簡単に打ち残す世界ではなく宗教の世界だ。

16世紀初頭、活字印刷が始まった頃今でいう出版社にあたる書籍商の発行部数は学術書類は500~1000冊、一般大衆向けでも1000~2000冊程度。16世紀ヨーロッパで生産された出版点数がフランス7万点、ドイツ10万点以上、イタリア5~10万点といわれることを考えてもこのアイルランド最古の大学に眠る本たちの貴重さが解る。

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Dublin その風景

夕刻リフィ川にかかるオコンネル橋から遠くハーフ・ペニー橋を撮影。この橋に向かって花婿と花嫁の行進写真はこのマガジンの背表紙に使っている。

丁度橋を渡ろうとしている時、にこやかなグループが現れ記念写真を撮りたいと彼らの友人が周囲に配慮をお願いして撮影&行進。短いアッという間のことだったがビートルズ JACKET のように通りを渡り始めた。そのしあわせの行進を私もハーフ・ペニー橋横から風景拝借。

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此処が Dublin だからなのか、日本ではないヨーロッパだからなのか映画のシーンのような場面に度々遭遇する。Dublin に限らずアイルランドの至る所で大道芸の人やストリートミュージシャンに会う、寧ろ日替わりで契約されているかのように風景の一部になっている。特に音楽が街に響き、その音が雨のように道路に流れる夕刻から夜はいつまでもそぞろ歩いていたいほど。これも危険に満ち緊張を強いられる街ではないから可能なのだろう。

人々もとても穏やかでやさしい。或る日のランチタイムのこと、私の order に対して「この肉には脂身がたっぷりついていて君は食べない方がいい。鳥肉を択べ」と主張する。実は彼の助言に従うとお値段は最初よりも安くなる。また、周囲が皆何かしらアルコールを飲んでいる中私が何も頼まないことを苦手と判断したのか軽いカクテルをサービスだと持ってきてくださる。入店した時に勝手に感じた彼の不愛想な印象が別人のように変わり、私の緊張も解けた。

おまけは order のチキン料理を「召し上がれ」と日本語を添えて提供してくれたこと!どうして日本人と解るのかも不思議だったが忘れられない思い出になる。テーブルを去る時に紙ナプキンにお礼の言葉とチップを置いて帰った。

クライストチャーチ大聖堂 道路沿いの木は八重桜
クライストチャーチ大聖堂 道路沿いの木は八重桜

ツアープランナーからのコメント

素敵なお写真と旅行記ありがとうございました。
今回はダブリンのみの滞在でしたが、お問合せいただいた時から「旅の目的」が決まっていたので、限られた滞在時間の中でとても内容のある見学ができているように感じます。

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