【研修レポート】 ラトガレ州 (ラトビア東部) 研修旅行6日間

期間:2016年5月18日~2016年5月23日
パーパスジャパン:中島

GON-001066

1日目・5月18日 (水)

午前10時45分、フィンランド航空78便にて、関西国際空港を発ちました。

関西 -ヘルシンキ間は、エコノミー・コンフォートクラスに試乗させていただきました。エコノミークラスよりも足元が少し広く、マリメッコ・デザインのポーチに入ったアメニティキットを貰いました。エコノミークラスしか乗ったことのなかった私は、数センチでもピッチが広いと、ここまでゆったり感があるものなのかと実感しました。

飛行機は琵琶湖の東側の上空を飛び、残雪の北アルプスを越えていきながら高度をどんどん上げ、富山県・新潟県辺りの上空で1万メートルを超えました。日本海を渡り、ロシア上空を飛行して、窓外の景色も単調になってきた頃、機内食がサーブされ、高度1万メートルの映画館で映画を2本観て、昼寝して、アイスクリームを食べているうちに、ヘルシンキのヴァンター国際空港に到着しました。

ヘルシンキで、成田、名古屋からの参加者の皆さんと合流し、プロペラ機のフィンランド航空125便は、バルト海を越え、エストニアの上空を飛び、17時20分(日本時間:23時20分)、ラトビアの首都、リーガに着きました。

空港で日本語ガイドさん(ラトビア人)らと合流し、蝶ネクタイがトレードマークの超イケメン運転手が運転するミニバスに乗って、リーガ市内へ向かいました。

公認の日本語通訳案内士はラトビアには7人しかいないという、貴重な(?)日本語による案内を聞きながら、ヴェルデマーラ VELDEMARA 通りを東へ、リーガ建都800周年のために作られた、どこから見ても800という文字に見えるモニュメントや、左右に建ち並ぶ木造建築群を走り抜け、ラトビア最大の河川・ダウガワ DAUGAVA 川に架かるヴァンシュ VANSU 橋を渡り、橋の上からリーガのランドマークとも言えるテレビ塔(ベルリンのテレビ塔より50㎝高い、368.5メートル)や橋のたもとのリーガ城を右手に、空港から約30分。
エスプラナーデ ESPLANADE 公園の東側に面する今夜の宿泊ホテル、ラディソン・ブル・ラトビア RADISSON BLU HOTEL LATVIJA に到着したのは18時30分頃でした。そして、少しの休憩の後、ホテルから旧市街まで歩き、リーヴ LIVU 広場に面するレストラン「カリチュ・ヴァールティ KALKU VARTI 」で夕食を摂りました。

夕食後も歩いてホテルまで戻りましたが、21時半頃でもまだ明るく、気温は14℃ と心地良い涼しさでした(私達が訪れた5月下旬は、5時頃の日の出、21時半頃の日没でした)。

写真

写真

写真

2日目・5月19日 (木)

時差ボケで早くに目覚めましたので、身支度を済ませると、ホテルの周辺を少し歩いてみました。朝の気温は11℃。
エスプラナーデ公園の南側のブリーヴィーバス BRIVIBAS 大通りを、ロシア正教会の救世主生誕大聖堂(1876年から1884年にかけて建造)や自由記念碑(1935年に建立、高さ42メートル)を見ながら、昨夜のレストランまでの同じ道を歩いて、とりあえず旧市街へ行ってみました。

旧市街を沿うように南北をトラムは忙しく走っていましたが、早朝のために人通りはほとんどありませんでした。リーヴ広場で折り返してホテルの前まで戻ると、今度はエスプラネーデ公園を北へ、本館が1903年から1905年にかけて建造され、つい最近、大規模改修工事を終えたばかりのラトビア国立美術館まで散歩しました。

首都ながら超高層ビルはほとんどなく、私達が宿泊した27階建てのラディソン・ブル・ラトビアがかえって異彩を放っていたほどで、歴史的価値を感じさせる多くの建物の中に街路樹や広大な公園があって緑が溶け込み、まさにガーデン・シティの異名が似合う街でした。

午前8時15分、ホテルを出発すると、一路、東へ。まずはクアクネセ KOKNESE( KOK…木、NESE… 運ぶ)へ向かいました。リーガを離れて郊外へ向かうに連れ、その景色は一層、牧歌的に変わっていきました。
えん麦、大麦、小麦、蕎麦、ライ麦のラトビアの五穀などの畑が広がり、鎮守の森があり、リンゴの木は神聖な木とされているために、農場の真ん中にあっても切らないので、一本だけぽつんと立っています(行く先々でリンゴの花が満開で、見頃を迎えていました)。

コウノトリは神聖な鳥とされているために、電柱のてっぺんにも巣を作ることが多いのですが、コウノトリが感電しないように電線を切ることもあるそうです(ちなみに、黒いコウノトリもいるそうですが、絶滅危惧種でなかなか見ることができないようです)。ヨーロッパ・トウヒ(唐檜)は、ラトビアではクリスマスツリーの木に使われるのですが、国有林から、一世帯に一本だけ切っても良いと法律で定められているそうです。

そんな自然豊かなラトビアの国土の半分は森林で、針葉樹や広葉樹が多くを占めます。確かに、昨日、飛行機の小さな窓越しから眼下を見ると、とにかく緑が溢れていて、どこまでも平野部が広がる平べったい国といった印象でした。最高峰は、ラトビア北中部にある、標高312メートルのガイズィンシュ山だそうです。
東北6県よりやや小さいラトビアの国土に約200万人が暮らし、日本人と同じく、ラトビア人も祖先や自然を崇拝する民族で、土着宗教のラトビア神道は自然崇拝に基づいています。

車窓に流れる景色を眺めながら、午前9時30分、リーガから約100キロの距離の町・クアクネセ(ゼムガレ州)に到着。
駐車場から森を歩いていると、どこからか歌声が聞こえてきました。道行く先に、19世紀の衣装を着たお母さんたちがクアクレ KOKLE (バルト海諸国で見られる儀式用の弦楽器)を奏でながら、歓迎の歌で出迎えてくれていました。

お母さんたちは、ここから少し離れたところにある伝承館「ものづくりの家 RADOSA MAJA 」から来てくれていて、古式に則ったラトビア神道の結婚式を再現して見せていただきました。伝承館や伝承団は、ラトビア各地に多数あるそうです。
参加者の中から夫婦役を決めると、目隠しをされた花嫁は花婿に手を携えられて花で囲まれた短い板の道を歩き、新郎新婦を囲んでダンスを踊り、祈りを込めて槇を焚き、最後に、夫婦の共同作業として、これからお金を一緒に作っていくという意味合いで、1277年のクアクネセの紋章が刻印されたコインを作りました。

肉入りパンやルバーブを塗ったパンと紅茶を頂いた後、修複作業が進む北方十字軍の要塞跡を見学しました。1209年に造られた要塞は、今では城壁の一部を残すのみですが、要塞の中には、宿泊施設や地下に造幣局、製粉所もあったようです。
また、この要塞はもともと丘の上にありましたが、ダムの建設により水位が25メートルも上がって、半島の岬に残る要塞跡のようになってしまいました。

写真

写真

写真

午前10時30分、PERSE 川側の桟橋から、バイキング船「ナメイスィス NAMEISIS 」(2013年建造)に乗って、対岸の運命園までの約15分、ダウガワ川遊覧を楽しみました。
前述のように、ダム建設によって水位が大きく上がったために、この辺りの川の最深部は40メートルに至り、80kgほどの巨大ナマズもたくさんいるそうです。

聖書を初めてラトビア語に翻訳したグリュック牧師も勤めていた、1687年建立(尖塔は1887年建造)のクアクネセ・ルーテル教会 KOKNESES LUTHERAN CHARCH の対岸に位置する、運命園 LIKTENDARZS (20世紀ラトビア全犠牲者慰霊公園)を視察しました。
コンペで優勝された枡野俊明(マスノ・シュンミョウ)氏の設計で、未来、現在、過去を表現しているそうですが、2008年から建設が始まり、今もまだ建設中で、この日もダンプカーが土砂を運んだり、植樹作業をしている様子が見受けられました。ラトビア建国100周年を迎える2018年に合わせて、完成予定だそうです。

テーマ毎に作られている園内を見て回り、終盤に差し掛かったころ、石畳の通りが出てきました。よく見ると1つずつに白抜きされた名前が彫られていました。寄付を募って石畳の通りを造っているらしく、完成すれば11万人分にも及ぶそうです。しかし、2016年5月現在、まだ3万人分とのことで、3分の1にも至っていません。10ユーロの寄付で誰でも参加できるというので、参加者全員が協力することにしました。8月頃、32メートル付近に埋め込まれる予定とのことです。

バイキング船とクアクネセ・ルーテル教会
バイキング船とクアクネセ・ルーテル教会

写真

13時、再びミニバスに乗り、いよいよ、今回の視察の目的地、ラトガレ州に向かいました。車窓には相変わらず牧歌的な景色が続きます。

1時間ほど走って着いたラトガレ州最初の町は、リーワーニ LIVANI 。まずは市内のレストラン「 VEIKALS 」で水とんスープと、この時期にしか飲めないという白樺ジュースを頂きました。

その後、工芸職人館を訪ねました。ここはガラス美術館と織物工房(ドゥブナ)が併設されていて、1887年の創業以来、2008年までガラス工場として稼働していたそうです。リーガ市内に立つ自由記念碑の台座部分に組み込まれているガラスも、ここの工場(当時)で製造されました。

写真

自由記念碑に使われているガラス
自由記念碑に使われているガラス

リエルワールデ帯
リエルワールデ帯

2日目最後の視察地は、リトアニアとの国境に近い、ダウガウピルス DAUGAVPILS 。ラトビア第2の都市で、リーガから車で約3時間の距離。街の中心部は、1826年のサンクトペテルブルク(ロシア)の都市設計図に則って開発されました。街の端から端まで、車で約30分の広さで、市内にはトラムも走っています。

ダウガワ川沿いに建設された十五稜郭は、1812年のナポレオン戦争の際、帝政ロシア軍がここに陣を構え、激戦を繰り広げました。現在見られるのは、その戦後に40年以上かけて改築された時の姿です。約8万3,000㎡の広大な要塞の中は、今は街にもなっていて、18のアパートがあり、約1,200人の住民が暮らしています。

17時45分。ダウガウピルス要塞の中にある、武器庫を改装したマーク・ロスコ美術館(2013年開館)を見学しました。ダウガウピルス生まれの世界的にも有名なアメリカの抽象画家、マーク・ロスコ(1903年-1970年。1913年、家族と共にアメリカに亡命)の作品は世界で1000点ほど残されているそうですが、オリジナル作品を鑑賞できるのは、東ヨーロッパではマーク・ロスコ美術館のみで、6点が展示されています。マーク・ロスコの世界観を理解するには、私の感性では難しかったですが……。

続いて訪れた、要塞の門(ニコラス・ゲート)に併設されていた元牢獄を改装した THE CHEST OF MEMORIES では、従業員が作った19世紀初頭のドレスを安価で借りることができ、それを着て要塞の中を散歩できるサービスもあります。

写真

写真

ニコラス・ゲート
ニコラス・ゲート

20時20分頃にパークホテル・ラトゴラPARK HOTEL LATGOLAに到着。10階のレストラン「プラザ」で、夕闇に染まっていくダウガウピルスの街並みを眺めながら夕食を頂き、部屋に戻ったのは23時半頃……。長い1日でした。

写真

写真

写真

3日目・5月20日 (金)

今朝も時差ボケで早くに目覚めましたので、身支度を済ませると、ホテルの周辺を少し歩いてみました。
ホテルの前には大きな広場があり、大規模なイベントも開催されることがあるようです。ホテルに併設しているスーパーを横目に、通りを挟んでホテルの裏手には、バチカン市国のサンピエトロ寺院と広場を縮小して模したという聖ペテロ教会(1848年建造、1924年に増築)があります。ドアは閉ざされていましたが、スピーカーから司教か司祭(神父)の声が流れていました。中ではミサが行われていたのでしょうか?

教会の前の通りは綺麗に整備されていましたが、早朝のためにまだ街はほとんど動いておらず、閑散としていました。リーガで見たように、トラムは朝早くでも忙しく走り回っていました。ホテルの部屋の窓から遠くに見えていたチャーチ・ヒルまで歩くには遠いのでホテルへ引き返した、気温17℃の朝でした。

さて、3日目もラトガレ州の視察です。
午前8時30分、チャーチ・ヒルの前を通り、ベラルーシとの国境に近い、クラースラワへ向かいました。チャーチ・ヒルは、その名のとおり、教会が集中して建っていることから名付けられましたが、何故この場所に教会群があるのかは謎だそうです……。
40分ほど走ると、道路沿いの峠の展望台に車を停めました。そこはクラースラワ発祥の地とのことで、ダウガワ川と遠くに現在のクラースラワ KRASLAVA (人口約9,000人)の町並みを望みました。

クラースラワの語源は椅子という意味のクラソス KRESLS で、蛇行している川の流れを俯瞰すると椅子の形に見えることに由来しています。展望台には巨大な椅子のオブジェが置かれていました。
約20年前、水力発電所建設の予定があったそうですが、水位が上がって綺麗な景色が失われると、クラースラワの市民は景観を守るために猛反対しました。最終的に建設計画は中止になり、今では、この辺りからダウガウピルスの郊外にかけて、DAUGAVAS LOKI 自然公園として、ハイキングやサイクリングなどができるルートが整備されています。

この辺りのダウガワ川が蛇行している神話――。
神様に川を造るように命じられたビーバーは、クラースラワからダウガウピルスまで川造りを始めました。だんだん疲れてきたので、モグラとクマに一緒に川を造ってくれるように頼みました。しかし、モグラとクマは一生懸命に働いてくれようとはせず、おまけに喧嘩騒ぎまで起こしました。大騒ぎのおかげで木々や花々を散らかしてしまい、森の動物たちはちゃんと掃除をするように叱りました。反省したビーバーたちは、昼間は掘るべき方向を相談し、夜に作業を進めることにしました。しかし、夜で暗いために、決めていた方向に川を造ることができず、あっちへこっちへ曲がり、クネクネの川になってしまいました。

少し車を走らせて、現在のクラースラワの町中で再び車を停めました。8月通りAUGUSTA IELAの道路の左右には木造建築群が建ち並んでいましたが、これらはラトビアの重要文化財に指定されており、18世紀後半に建てられた家屋もあるようです。どの家にも煙突があり、昔はサウナや燻製、分娩のために、煙が立ち昇っていました。

車を降りて、山手の方へ上がっていきました。どこへ連れていかれるのか判らないまま後をついていくと、100メートルほど歩いた麓辺りに十字架の墓がありました。KARNICKIS という男性の墓だそうです。 KARNICKIS は蝋燭の火を灯して、ここ(墓のある場所)に今、自分がいることを数百メートル先の領主館(クラースラワ城)で暮らすプラーテル伯爵 COUNTS PLATERI の娘に合図をしていました。相思相愛にも関わらず、決して叶わない悲恋だったために、やがて KARNICKIS は30歳の若さで、銃で自殺してしまいました。墓碑によると、1838年8月のことだったようです。伯爵の娘も自殺を試みましたが、家政婦に止められてしまい、心中は叶いませんでした。

KARNICKIS が亡くなった翌日、自殺をした場所から泉が湧き出しました。市民は、さっきミニバスを降りた辺りの道路沿いまで水道管を引き、自由に水を汲めるようにしました。この水を3回続けて飲むと恋が叶うそうですが、悲恋に終わったんでしょ……?

高台からは長閑な景色が広がり、リンゴの花が満開でした。クラースラワは、60年ほど前から、ロシアの人々の避暑地としても人気の場所だそうです。クラースラワを訪れるロシア人たちはキュウリ好きらしく(初めて聞きましたが……)、大量消費されたので、以来、クラースラワはキュウリの栽培が盛んになったそうです。土壌がキュウリ栽培に適していたのでしょう。

写真

写真

再びミニバスに乗って、昔は木造だったダウガワ川に架かる PROSPEKRA 橋を渡り、森の中を進んで行くと、高さ32メートルのプリエダイネ PRIEDAINE 展望塔が聳えていました。

木製の櫓のために少し揺れを感じながら、恐る恐る階段を上りました。上る度に視線を下に向けると、だんだん地上が遠くなっていきます。頂上に上がると、広大な森や遠くまで流れるダウガワ川、クラースラワの町並が一望できました。

一度に15名以上は同時に上ってはいけません。
一度に15名以上は同時に上ってはいけません。

写真

現在建つプラーテル伯爵の領主館は復元ですが、内覧は事前予約制のため、今回は叶いませんでした。その敷地内のラトガレ州食文化遺産センターの2階で、早めの昼食を頂きました。

麻の実のペーストが塗られたライ麦のパン、ひまわりの種入りのチーズ、豚肉と鶏肉の燻製、特産のキュウリのピクルス、チーズ入りのパンケーキ、プラム・ジュース、デザートは木イチゴのジャムがかかったホームメイドのアイスクリームの郷土料理でした。

クラースラワ城。2階の自室から伯爵の娘は KARNICKIS の蝋燭の灯りを見つめていました。
クラースラワ城。2階の自室から伯爵の娘は KARNICKIS の蝋燭の灯りを見つめていました。

写真

写真

写真

写真

写真

クラースラワから車で約40分。午後に訪ねたアグロナ AGLONA では、大聖堂を見学しました。
ラトガレ地方は、信仰の地でもあることから十字架のキリスト像や教会の尖塔も数多く見受けられます。聖母マリアが現れた場所ということで巡礼地にもなっているアグロナ大聖堂は、カトリックの総本山の1つとして世界的にも有名です。

17世紀の終わりに、ドミニコ会がアグロナに木造の男子修道院を建てたのが始まりです。1699年に焼失した後、石で再建され、1768年から1780年にかけて、現在の姿の教会が建てられました。ポーランド風のゴシック建築で、60メートルほどの2つの尖塔が立ち、18世紀から19世紀にかけて施された内装はロココ様式です。

毎年8月15日の聖母被昇天祭には、ラトビア人の他に、リトアニアやポーランドなど多くの国から、数万人のカトリック信者が祝福のために集まります。1993年9月には、時のローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世(在位1978年-2005年)によるミサも執り行われましたが、それに先立ち大規模な修復作業が行われたそうです。

写真

写真

写真

30分ほど車を走らせて、次はウシュペリ家の陶芸工房ヅィンドラスを訪ねました。
車が停まるや、遠くから1匹の白い犬が尻尾を振りながらやって来ました。“1.5メートル”という不可解な名前を付けられた犬は私達を陶芸工房まで連れてくれるのですが、すぐに寝そべってはお腹を向けて、甘えてきました。

ラトガレ州は良質な粘土質の土が採れることから陶器でも有名で、粘土から形作り、窯で焼く工程を見せていただきました。庭では、歴史の先生らで集まった火打石丘武士団(歴史クラブ)の人たちが、研究のために再現した武器や衣装を見せては、いろいろ説明していただきました。中には、馬3頭分の価値の剣もあったようです。アグロナ大聖堂でも見かけた社会科見学中(?)の小学生が、ここにもやって来て、武器に興味津々でした。

写真

超イケメン運転手と1.5メートル
超イケメン運転手と1.5メートル

写真

写真

歴女と1.5メートル
歴女と1.5メートル

さらに車で15分ほど北西へ走り、ルーズナワ LUZNAVA では、1911年に建てられた領主館を訪ねました。

2011年から2015年にかけてリノベーションされましたが、アールヌーボー様式の内装は維持され、壁紙などにそのデザインが施されていました。今では維持管理のため、有名な音楽家によるコンサートや陶芸家などの作品の展示会の開催、結婚式など、多目的に使用されているそうです。

写真

写真

ルーズナワを15時45分に発ち、レーゼクネの今夜の宿泊ホテルを通り過ぎて、16時30分、ルヅァ LUDZA に到着。この時間から、まずは夕食です。アコーディオンによる歓迎の歌で出迎えられたラトガレ厨房 LATGALU KUKNA で、地元のテレビ局にカメラを向けられて、少し恥ずかしながらも、郷土料理を頂きました。その後、道路を挟んで向かい側にある職人館 CRAFTSMAN CENTRE を見学しました。

この日の予定は、最後に、レーゼクネのコンサートホールで音楽を聴く予定でしたが、いつの間にか大幅に時間が押していたために、鑑賞をキャンセルせざるを得なくなり、職人館から見上げる丘の上の城址を見に行きました。

大ルヅァ湖と小ルヅァ湖の間の丘の上に、1399年、東側から攻めてくるリヴォニア騎士団に対抗するために北方十字軍が要塞を築きました。クアクネセで見たように、ここも今では城壁だけが残っていて、広場と化した野原にはタンポポや、さっきの夕食の時に頂いたスープに入っていたイラクサが一面に咲いていました。

写真

写真

写真

写真

イラクサのスープ
イラクサのスープ

写真

写真

19時、ルヅァを発つと、今夜の宿泊地、レーゼクネへ向かいました。リーガから約240キロの距離の町・レーゼクネ REZEKNE は、第2次世界大戦時、街の80%が破壊されましたが、復興を遂げ、今では約9,000人が暮らす“7つの丘”の町です。

ルヅァから30分ほどで市内に着くと、丘の上に残る城址と、丘の麓にある、子供たちの放課後の課外活動を促進する教育施設 ZEIMULS (2012年完成)を見学しました。
城址の歴史は、9世紀から12世紀まで、古代ラトガレ人が木造の城を築いていましたが、13世紀に北方十字軍によって破壊されました。しかし、この場所は、戦略的に重要な場所だったために、リヴォニア騎士団が石造りで再建しましたが、結局、城は17世紀のポーランド・スウェーデン戦争で破壊されてしまいました。

ミニバスで少し移動して、想像以上に立派だったコンサートホール、ゴルス GORS (2013年完成、大ホール:3,000人・小ホール:1,000人収容可)も視察しました。本来の予定では、ここでコンサートを観る予定だった TURAIDAS ROZE は、80~90年代に活躍したラトビアの国民的人気バンドだったそうです。訪ねた時はまだ公演中のようでしたので、途中からでも入って、観てみたかったなと少し思いました。

21時頃、ホテル・コロナ HOTEL KOLONNA にチェックイン。

写真

ゴルス
ゴルス

ZEIMULS
ZEIMULS

写真

4日目・5月21日 (土)

今朝も相変わらず時差ボケで早くに目覚めましたので、身支度を済ませると、昨夕、丘の上の城址からも見えていた、HEART OF JESUS CATHEDRAL (大聖堂)まで散歩しました。

ホテルの前の LATGALES 通りをまっすぐ行くだけでしたので、途中で木造の住宅が建ち並ぶ横道に逸れてみました。大聖堂は、1685年に木造の教会が建てられましたが、1887年に落雷で焼失したため、翌1888年、ゴシック様式の石造りで再建されました。

ホテルまでの帰り道、LATGALES 通りにはバスターミナル( AUTOOSTA )もあり、朝から利用客で賑わっていました。

今日でラトガレ州の視察は終わり、今夜、リーガへ戻ります。
午前8時40分、ホテルを出発すると、「ラトガレのマーラ」像の前を通り、ガイガラワ村へ向かいました。

ラトビアには、カトリック、ユダヤ教、オールド・ビーバー(古儀式派/ロシア正教の一派)、ラトビア神道など、様々な宗教が混在しています。マーラ像の台座には「 VIENOTI LATVIJAI (ラトビアの団結)」と書かれ、ラトビア神道の民族衣装を着て、キリスト教の十字架を掲げている姿は、宗教の共存も現しているそうです。この像は、ラトビア独立のために戦った人たちに捧げるために、1939年に建立されました。戦禍などで再建を繰り返し、今の姿は1992年に造られたものだそうです。

レーゼクネから北西へ車で約30分、ガイガラワ GAIGALAVA では、楽器博物館とシュマコウカ SMAKOUKA (蒸留酒)博物館を視察しました。収集されたたくさんのアコーディオンや弦楽器、犬の皮で作られた太鼓、民族楽器がひと部屋の中に展示されており、音楽家でもあるオーナーから演奏を交えて説明を聴いた後、自由に楽器を触らせていただきました。参加者全員、鳴らし放題、叩き放題でした。

楽器博物館と同じ平屋の建物の中にあるシュマコヴカ博物館では、4種を味見させていただきました。ラトビアでは自家製でも酒類の販売は認められているそうです。自家製なので、きつい感じはしないとのことでしたが、ツルコケモモ(アルコール度数、30度)、リンゴと柏の樹皮(同42度)、プロポリス(同45度)、ハチミツ(同50度)。どれも舌に付ける程度の、舐めただけでしたが、舌が痛くなりました。

シュマコウカ博物館(左端)と楽器博物館(右端)
シュマコウカ博物館(左端)と楽器博物館(右端)

写真

写真

20分ほど車を走らせて、次は湿地帯に敷かれた木道を歩きました。この木道は2001年に日本人の設計、デンマークの出資で敷設されたそうです。

アカマツの森(国有林)を抜けると湖が広がり、様々な植物が観察できました。細い木々は、栄養分が少ないために幹が細くなっていますが、樹齢100年だそうです。湿原にできるビルベリー、森にできるブルーベリー、イソツツジ、コケモモ(クランベリー)、ツルコケモモ、スッポンダケ、6月に開花する唯一の食虫植物のモウセンゴケ、咳に効くアイスランド・コケ、トナカイの餌にもなるという風邪に効くコケなどの植物、ラトビアでは1年に7頭まで捕獲が認められているリンクスを始め、レッド・リスト(…国際自然保護連合 IUCN が作成した絶滅のおそれのある野生生物のリスト)に登録されている希少動物(テン、オオカミ、カワウソなど)の他、クマやムースなどの野生動物も棲息しています。

遠くには、湖の波に乗って、2羽の白鳥が漂っていました。25種のカモ、10数種のカモメ、オジロワシなどの猛禽類など、240種の鳥類もいます。イギリスやベルギー、アメリカなど、世界中から鳥類の研究者がフィールド・ワークのためにこの地域をよく訪れるそうです。

トレイルが終わると、再び森の中に入り、駐車場へ戻りました。鳥のための巣箱が木々に掛けられ、クマに壊された蟻塚があり、タンポポの綿毛が飛び回っていました。ヘムロック(ドクニンジン)のような全身麻痺を引き起こす猛毒の草もあれば、薬草もあります。ラトビアでは、森のモノは自由に獲っても良く(自然享受権 EVERYMAN’S RIGHTS )、タンポポでワインやジャムを作ったり、白樺でお酒も作ったりするそうです。ラトビアの人々は、自然の恵みを大切にしています。

写真

写真

イソツツジ
イソツツジ

ルバーンス LUBANS 湖畔の民宿「ズヴェイニエキ ZVEJNIEKI 」(漁師という意味)に移動しました。民宿の前には、ライラックの花が満開でした。

この地域でも、冬になると雪深くなり、暖かい季節を迎えると雪解けで湖が氾濫して、水位が上がってしまいます。すると、周囲は一面、湖と化し、村が島になってしまうことから、“水の島”と名付けられています。水没を逃れるため、家屋は丘の上に建てられています。この民宿も湖よりも高台に建っていました。

湖では、ウナギやコイなどが獲れますが、この日は雄のコイしか獲れていなかったらしく、残念ながら(?)雄のコイのスープと、8月から正月頃まで狩猟が解禁されるムースのソーセージ、パイクパーチ(和名:カワカマス、淡水の白身魚)、雌のコイの燻製など、家庭料理の昼食を頂きました。

食事の席では、娘さんが9ヶ国語を話す考古学者であることが自慢の、超話好きのご主人のヤーニスさんと、「あなたの話が止まらないから、皆さんが食事を始められないじゃないの」とたしなめていた奥様のアンナさんに心からもてなしていただき、笑いの絶えないひと時を過ごさせてもらいました。

娘さんが話せる9ヶ国語のうちのラトガレ語は、ラトビアの方言という位置づけではないそうです。ドウゾは「酒を注いで」、ペーペーは「煙草を吸わない」という意味で、日本語でも使う言葉の音がラトガレ語にもあって、日本人受けします。そして、考古学者の娘さんの受け売り(?)によると、5000年前は、この村の辺りはまだ海で、採掘された琥珀をエジプトに輸出していました。古代エジプト時代の出土物の琥珀は、ラトビアでも採られていたそうです。

ヤーニスさん曰く、最近では中国やシンガポールからの観光客も増えてきており、「ラトビア 自然 美味しい食事」と検索して、ズヴェイニエキにやって来たシンガポール人観光客もいたそうです。ゴミ1つ落ちていないシンガポールに暮らす人々にとっては、ゴミが多く落ちている“花の都”パリより、ラトビアの方が綺麗だと話していたそうです。

食事を終えると、離れにある茅葺屋根のサウナを見せていただきました。茅葺はラトガレ地方の特徴だそうです。軒下には、夏至祭(ヤーニス)の時の冠が飾られていました。これは翌年の夏至祭の時に焚き上げられ、新たな冠を飾りつけます。そうして、深く印象に刻まれ、何となく名残惜しさを感じながらズヴェイニエキを後にしました。パリュディス PALDIS (ありがとう)。

民宿ズヴェイニエキ
民宿ズヴェイニエキ

雄のコイのスープ
雄のコイのスープ

雌のコイの燻製
雌のコイの燻製

ライラック
ライラック

パイクパーチ
パイクパーチ

サウナ
サウナ

ラトガレ州最後の訪問は、ワラクリャーニ VARAKLANI 県の伝承館「ラトガリ農園」でした。
1920年建造の建物を利用して運営されていて、屋内ではリエルワールデ帯(ラトビア神道の民族衣装の腰紐)を見せていただき、その帯を使ってラトビア神道における守り神の選定を体験しました。帯の上に手をかざし、“何か”を感じた所にあるマークで、馬屋の神(旅人の神)、太陽神、豊穣の神、天地樹の神、卍のマークが雷を表す雷神など、自身の守り神が判ります。

ミニバスの車窓から何度も見えて、ずっと気になっていたコウノトリの巣がラトガリ農園にもあり、ちょうど親のコウノトリが巣に帰ってきたところで、やっとじっくりと観察もできました。

写真

写真

写真

写真

写真

写真

16時50分、ラトガリ農園を発ち、リーガへ向かいました。
1時間ほど走った頃、ダウガワ川沿いのリアプサラス LIEPSALAS (菩提樹の島という意味)の、日本でいうところのサービスエリアで休憩を取りました。

川に浮かぶ小島にはラトビア神道の神殿が建てられています。第2次世界大戦時に亡命したラトビア神道の信者が米ウィスコンシン州に在外神殿を建立したそうですが、リアプサラスに建つ神殿は、ラトビア国内ではラトビア神道の建造物として唯一だそうです。

ちなみに2011年の国勢調査によると、ラトビア神道の信者は人口の20%、カトリックも20%、その他の宗教が40%、無宗教が20%の統計だそうです。

写真

リーガ市内に入ると、ラトビア国立美術館の長蛇の列(ちょうどこの日、夜の美術館で鑑賞する特別企画展が催されていたようです)を右手に見て、20時15分、2008年に開業したラディソン・ブル・エリザベーテ RADISSON BLU HOTEL ELIZABETE に到着しました(1日目に宿泊したラディソン・ブル・ラトビアから南へ数百メートルの所です)。そして、1階のレストランで、ラトビアの旅最後の晩餐。私は1パイントのビール「ツァース CESU 」(ツェースィス CESIS に工場があります)を注文して乾杯しました。

23時過ぎに解散。酔い覚ましに、深夜のバスターミナルまで散歩しました。ちょうど、サンクトペテルブルク行きのバスが出発していきました。

写真

写真

写真

5日目・5月22日 (日)

とうとう出国日。滞在中、ずっと天気は良かったのですが、最終日は特に快晴でした。
気温12℃の朝。結局、最終日まで時差ボケは続き、相変わらず早くに目覚めましたので、身支度を済ませると、リーガ中央駅の様子を見に行きました。ラトビアでは本数の少ない鉄道より、本数や方面の多いバスの利用者が多いそうです。

午後の飛行機でラトビアを発つ前に、午前中を利用してリーガ市内を観光しました。
午前8時30分。ミニバスに乗り、最高級ホテルのギャラリーパークを横目に、まずは新市街の、800軒以上は残っているというアールヌーボー建築を見に行きました。

新市街は、18世紀の帝政ロシア時代に建造され、建築家ミハイル・エイゼンシュテインが設計した、富裕層のためのアールヌーボー(ユーゲントシュティール)様式のアパートが建ち並んでいます。豪華な装飾が施された建物の前を通る度に立ち止まっては、見上げました。中庭にも入らせていただきましたが、外観とは対照的に、そこは住民の駐車場があるだけで、無機質な印象でした。ガイドさんが言うには、中庭も豪華だったら、それはアールヌーボーではなく、外観と内側の極端な違いが重要なのだそうです。

写真

エリザベテス通り10b番地
エリザベテス通り10b番地

再びミニバスに乗り、中央駅の南側の中央市場を訪ねました。
戦時中に途中で建設を止めた駅跡の前で車を降りると、屋外にひしめき合って並ぶストールなどを抜けて、建物の中に入りました。リーガの中央市場は、1930年代の建物をりようした5棟から成り、蒲鉾型の構造から想像できますが、戦時中は飛行船の格納庫だったそうです。

肉や魚、野菜や果物、乳製品、ハチミツ、パン、焼き菓子、日用品などが所狭しと並び、市民、観光客を問わず、多くの買い物客で賑わいを見せています。ちなみに、この中央市場より南側の地区は、あまり治安が良くないようです。

写真

ラトビア人は長い旅の時は黒パンを持っていきます。
ラトビア人は長い旅の時は黒パンを持っていきます。

ハチミツ
ハチミツ

リーガ大聖堂付近で車を降りると、徒歩で旧市街を散策しました。

旧市街は、中世に石造建築の技術を持ち込んだドイツ人によって築かれました。中世ドイツの商業都市の特徴が多く見られ、ロマネスク、ゴシック、バロックなどの建築様式が混在しています。

ドゥァマ広場から望むリーガ大聖堂
ドゥァマ広場から望むリーガ大聖堂

ラトビア国会
ラトビア国会

末っ子(三人兄弟)の前では、日本人客が通ると、「百万本のバラ」を演奏
末っ子(三人兄弟)の前では、日本人客が通ると、「百万本のバラ」を演奏

トゥルァクシュニュ TROKSNU 通りは、スウェーデン門に詰めていたスウェーデン兵が仕事終わりに飲んで大騒ぎしたり、武器を運ぶ音が響いていたために、“騒音通り”と呼ばれていました。

スウェーデン門の斜向かいの家の2階には、死刑執行人が暮らしていました。赤い花が飾られていると、今日は誰かの死刑が執行されたのかと知ることができました。そして、外国人と会うことを禁じられていた時代、スウェーデン兵と恋に落ちた娘さんが、罰としてスウェーデン門の壁に生きたまま塗り込められてしまった伝説があり、夜な夜な、娘さんがすすり泣く声が聞こえるのだとか……。

トゥルァクシュニュ通り
トゥルァクシュニュ通り

スウェーデン門から城壁沿いを歩き、火薬塔を見て、1日目と2日目に既に何度も目にしていた自由記念碑へ向かいました。

ミルダと呼ばれる女性像の頭上の3つの星と手から腕にかけての形の中の空白を子供に見立て、母親が子供を高く抱き上げている様子を表しているそうです。

写真

日中は、2人の衛兵が立っています。1時間毎に交替するとのことで、時計を見ると間もなく11時。ちょうど、交替式の様子が見られました。

交替式を見届けると、旧市街の入口辺りのチョコレート店「ライマ LAIMA 」で、お土産タイム。この店はラトビアを代表する老舗チョコレートメーカー(1870年創業)の直営店です。ラトビア土産にはここのチョコレートも人気とのことで、私も買い求めました。

写真

人気のチョコレート
人気のチョコレート

写真

猫の家の向かい側に建つ大ギルド・コンサートホールの建物の外壁には、血の日曜日事件(…1991年1月、共産主義を支持する勢力がソビエト権力の復活を企図して軍事力による新政府転覆を試みましたが、ラトビア人によるデモ隊はかろうじて戦略的拠点を赤軍による占領から守り抜きました)の時の弾痕が今も生々しく残されていました。

恐らく、当時の事件を風化させないために、あえて埋めずに残しているのでしょう(今回は訪ねませんでしたが、ガイドブックの地図を見ると、旧市街の東側の広場には、1991年1月20日の犠牲者の記念碑が建立されているようです。国民にとって、どれほど重みのある事件だったかが窺い知れます)。

再びリーガ大聖堂前のドゥァマ DOMA 広場に出ると、リーガで最も狭い路地のバラ ROZENA 通りを歩きました。その昔、幅の広いスカートを履いた女性が双方から来るとすれ違えず、お互い道を譲らなかったために一悶着が絶えなかったそうです。バラ通りを抜けた時、リーガ大聖堂から、長い修復期間を経て、最近鳴り出したという正午を告げる鐘が聞こえてきました。

血の日曜日事件の時の弾痕
血の日曜日事件の時の弾痕

バラ通り
バラ通り

世界で初めてクリスマスツリーに装飾をしたことを記念するモニュメントを見て、半地下にある商業施設「 Rates pasaza –TIRDZNIECIBAS IELA SHOPPING STREET 」を通り抜けると、右手側にある民芸品店「セナー・クラーツ SENA KLETS 」で買い物タイム。

市庁舎広場から、リーガの守護聖人・聖ローランドの像やブラックヘッド会館、市庁舎広場の借景のように聳える聖ペテロ教会の尖塔(高さ121メートル)の光景を最後に見納めると、ミニバスに乗って空港へ向かいました。

世界で初めてクリスマスツリーに装飾をしたことを記念するモニュメント
世界で初めてクリスマスツリーに装飾をしたことを記念するモニュメント

市庁舎広場
市庁舎広場

写真

クリスマスツリーを立てるマーク(市庁舎広場)
クリスマスツリーを立てるマーク(市庁舎広場)

ダウガワ川のリーガ港には、ストックホルム行きの国際フェリー(タリンクシリヤライン TALLINK SILJA LINE )が停泊していました。そして、15分ほどで空港に到着。お世話になったガイドさんと、安全運転に努めてくれた、6日間ずっと蝶ネクタイだった超イケメン運転手とお別れし、フィンランド航空122便に乗って、14時25分、リーガを発ちました。

右側の窓側の席でしたので、離陸後、ダウガワ川の河口近くにあるという六稜郭を見つけ、約1時間15分の飛行時間を経て、ヘルシンキに到着。

六稜郭
六稜郭

乗り継ぎに少し時間がありましたので、妻にマリメッコの赤いウニッコ柄のポーチをお土産に買い、税金還付のカウンターの場所を確認し、出国用の自動化ゲートから出国審査を通り、ラウンジを視察し、フィンランド航空77便に搭乗しました。ヘルシンキ-関西間は、ビジネスクラスに試乗させていただきました。

人生初のビジネスクラスにワクワクしながら、優先搭乗のアナウンスが始まると、早々に機内に乗り込みました。そして、座席に腰掛けると、早速、シャンパン、ブルーベリージュース、水からチョイスのウェルカム・ドリンクのサービス。エコノミー・コンフォートよりひと回り大きい、マリメッコ・デザインのポーチに入ったアメニティキットの他に、マリメッコ・デザインのスリッパも頂きました。

17時25分にヘルシンキを発ち、安定飛行に入ると、座席のいろんなスイッチを押して、快適な角度を見つけてリラックス。マッサージ機能も付いていました。すぐに夕食のサーブが始まりました。そして、憧れのフルフラットシートでひと眠り。そうこうして、あっという間の9時間30分を経て、翌23日(月)の午前8時55分、関西国際空港に無事に帰着し、6日間の旅を終えました。

近年、ラトビアはヨーロッパでも人気上昇中の観光国ですが、日本人旅行客は年間2万人程度とまだまだ未知未踏の国かも知れません。

文中でも触れましたが、2018年はラトビア建国100周年です(ちなみに、来年はフィンランド独立100周年)。弊社ではラトビアを始め、バルト三国専門店を開設し、様々なツアーをご提案しています。少しでもご関心をお寄せいただけましたら、是非一度、お問い合わせください。

(※本文中に記載の情報は2016年5月現在のものです)

ページのトップへ