未知なる美しさを求め 北イタリア周遊19日間
期間:2016年6月15日~2016年7月3日
高田 様
【 序 】
大手の旅行会社が自社の企画旅行(パックツアー)の販売を主とするようになって来た昨今、個人の企画旅行を心よく引き受けて下さる会社は貴重な存在です。パーパスさんはそんな会社の一つです。
2016年初夏、イタリアの旅を企画しました。イタリアは初めてではありません。イタリアには再訪、再々訪、の気持ちを起こさせる魅力があります。行程はまだ行ったことのない北イタリア、ミラノ → ヴェネチア → パドヴァ → ボローニャ → ラヴェンナ → サンマリノ → ミラノの周遊としました。地図を見ていたら、興味のある土地が次々に出て来て、それなりの長旅となりました。
一度でもヨーロッパに出かけたことのある方なら、この地域のキリスト教文化の、「よういならざる事態」に衝撃を受けた覚えがおありでしょう。中学・高校で学んだ地理・歴史では遠く及ぶべくもありません。キリスト教とローマ帝国のことを、そして西洋美術史のことを深く勉強しておかなければ歯が立たない。知らずに来てしまい、しまった、と思うわけです。そこで勉強するのですが、すこしばかり勉強してみても、「門前の小僧習わぬキリスト教に浸りながら育った」ヨーロッパ人に及ぶべくもありません。かくて見切り発車の再訪になったのでした。
【 ミラノ 】
ミラノは「最後の晩餐」だけ見られれば良いつもりで出かけました。美術的価値に不案内の私がこんなにも執心なのは、第2次世界大戦で、爆撃による壁画(フレスコ画)の破壊を恐れて、人々がこの前に土嚢を積み上げて守った、という世俗的なトピックのためです。爆撃したのはアメリカです。
近年、イタリアの美術館は大盛況で、予約をしないと入館ができません。「最後の晩餐」も予約必須で、パーパスさんにお願いしました。
入館許可時刻の30分前に行って予約券を入場券に取り替えます。日本語のオーデオガイドがある(注:パスポート必携)というので借りることにしたのですが、入館の15分前でないと貸してくれないのでした。待合室で待つ間にオーデオガイドを聞き、予習を始めてみたものの、絵を見ないうちには実感がわきません。
そうこうするうちに入館になりました。見学許可時間はたったの15分間です。予想を越えたはるかに大きな絵(壁画)でした。「こんなに大きかったの」といった感じです。やっぱり実物をみないと分からないものです。オーデオガイドを聞きながら、絵と対面しているうちに、制限時間は終わってしまいました。制限時間の方がオーデオガイドの再生に必要な時間よりも短いのです。あきれました。絵を見ながら、役員会で社長が「この中に裏切り者がおる」と叫んだら、こんな絵になるんだろうか?とクスッとした私でした。
最後の晩餐
最後の晩餐 お土産ものや
ミラノの残りはドーモにあてました。美しかったですね〜〜。白でもなく、灰色でもなく、ストーンという色なのか、それらがまたまだら模様で、加えて幾多の塔と相まって、実に繊細で華麗な美しさなのです。
フィレンッエのサンタマリア・デル・フィオーレの、白とピンクと緑の模様の美しさに息をのんだことがありますが、ミラノのドーモも、勝るとも劣らない繊細な美しさです。ドーモは外観だけでなく、内部(ステンドグラスと皮膚を剥がされた聖人の像)もそして、あの繊細な尖塔群のそばを屋上(テラス)に登って行く道筋も見所十分です。ドーモは私を離さず、ここに半日とどまってしまったのでした(注:日本語のオーデオガイドあり、パスポート必携)。
ドーモ
ドーモ内
ミラノの後に私は、ヴェネチア、パドヴァ、ボローニャ…と各地をまわり、かの地の強烈な印象に、ドーモの印象は薄れていくのですが、帰国にあたって戻って来たミラノで、再度ドーモを訪れ、漆黒の空を背景に銀色に浮かび上がる夜景のドーモにめぐり会ったときには、その荘厳な美しさに、やっぱりドーモだ、イタリアの最後に来て良かったと、薄れかかった印象を、焼き直したのでした。
ガッレリア
鉄道
まちかどで
車内
【 ヴェネチア 】
1990年、ニューヨーク、メトロポリタンには白布製の大きな広告が旗めいていました。大文字の C で始まる画家の展覧会でした。私の知らない画家でした。階段はいつになく人であふれていて、着飾ったご夫人がたくさんおられました。特別な展覧会に思われました。絵は港と運河にたゆたう船の風景画でした。透明な広く青い空と海、精緻な建物、中世の衣装をまとった人々。「写実を越え」、「はるかな時」に引き込まれたのでした。
それから何年かたって日本で同じような絵にめぐり会いました。画家の名前は Canaletto といいました。C の次は小文字の a だったことをなんとなく思い出しました。この画家だったのか。長い間、気にかけていた謎がようやく解けたようで、安心しました。絵は Venezia で描かれたとのことでした。Venezia って実際はどんなところなんだろう。カナレットの気分になってみたくなったのでした。
ヴェネチアの駅に降り立つと、目の前には屏風のように色とりどりの家が立ちはだかり、その手前に多数の船の行き交う運河、さらにその手前はちょっとした広場。広場には今の電車にこれだけの人が乗っていたとは思えないような人の群れ。幕が切って落とされた時の芝居の舞台を見るようでした。「不安と期待、これこそが旅の醍醐味」でしょう。心のざわめきが沸き上がって来るのでした。それにしても、ホテルにたどり着くにはどうしたものか……
ヴェネチアが高揚感をかき立てる一因は、この乳白青色の海の色でしょう。ここにくれば希望が湧いてきます。実に開放的な気分です。心が解放され、病は退散してしまうでしょう。サンマルコ広場、寺院、塔の上からの眺め、岸壁の対岸の教会、どこも「絵になる」のでした。Canaletto の世界がありました。記憶をたどって Canaletto はどこから描いたのかと思うのですが、記憶との対応がつきません。画集を買って持ってくるべきだった、と後悔したのでした。帰国して、青山昌文さんのCanaletto の解説(芸術は世界の力である:放送大学叢書)を見たら、Canaletto は「写真のように」描いたのではなく創意工夫をこらしていた、とのことでした。
ゴンドラ
ドウカレ宮
SGマジョーレ
フェニーチェ:椿姫
SGMagより
サン ジョルジョ マジョーレ教会
魚市場
アカデミア橋から
SGマジョレ
フェッチーに劇場
コンサート
サンタマリア デェラ サルーテ
パン屋さん
魚市場
早朝 (6時-7時台)のヴェネチアは静かです。散歩にもってこいです。でもこの街は活動を始めています。掃除とゴミの回収なのです。そして間もなく岸壁に着く船からは人々が降りてきて、身なりと手荷物とそして顔つきから通勤客と思われます。それが一段落すると、どこからともなく、本当にどこからともなく、道にあふれかえって来る人々、これが観光客なのです。
その人々の流れに身を任せていくと、サンマルコ広場に到着します。巨大な広場です。石畳です。まわりは同じ高さ、同じ色調の建物が囲み、この狭いヴェネチアによくぞ造ったというような広い空間です。圧倒されます。9時過ぎに広場にはすでに多くの人がいて、サンマルコ寺院の入場の為に長蛇の列です。広場の群衆はその後増えるばかりで、22時を過ぎても絶える事はありません。サンマルコ広場こそ「これぞヴェネチア」と言ってもいいでしょう。
サンマルコ広場から
サンマルコ寺院
サンマルコ寺院にバックパック(リュック)を背負って行ったら、広場の角の小道の奥の荷物預けに預けろ、と言われました。荷物預けでは、制限時間は1時間だ、と言われました。見学が1時間で終わるはずはないのですが、とにかく荷物を預けて入りました。寺院には2階にテラスがあります。ビックリした事には、2階部分の入場は10:45からとのことです。朝早めに並んだ甲斐はなかったのです。私は見学を40分で切り上げ、リックを受け取り、そのリックをホテルに置いて、再度サンマルコ寺院に入場したのでした。ちょうど2階への扉が開くときでした。2階部分からサンマルコ広場の世界各国の人々の集まりを睥睨していると、私がこれら人々と同時代を生きていることに思いひとしおなのでした。
サンマルコ寺院はビザンチンのモザイクで有名です。モザイクの事は、後ほどラヴェンナのところで。
Canaletto の作品に「リアルト橋からの眺め」というのがあります。私もその橋の上にたち、「当時の人々の声、行き交う船の水音まで伝わって来るようだった」と印象記を書くつもりでした。しかし人生とは上手くいかないものです。リアルト橋は工事中で被いがかかっていて、橋から眺める事も、橋を眺める事もできなかったのです。かくて私は、リアルト橋の修繕が終わったころを見計らって、「当時の人々の声、行き交う船の水音と喧噪を感じる為に」もう一度ヴェネチア訪れなければいけなくなってしまったのでした。
あらためてヴェネチア。よくこれだけのものを作ったとおもいます。湿地に木材を打ち込み、石を敷いて作ったそうですが、木材、石の切り出しと運搬、都市建設の工程と維持、生水と生鮮食糧の確保の方法、疑問は尽きません。できあがった「美」に対する感動とは別に、都市建設とその維持に思いをはせずにいられませんでした。
ヨーロッパと日本とを対比させ、「石の文化(ヨーロッパ)と木の文化(日本)」と言うことには異論もあるそうですが、ヴェネチアをみると(そして、ローマ、フィレンツェをみると)、そう感じてもかまわなかろう、と納得します。むしろ「上手い言い方だ」とおもいます。日本にこれだけの、これでもかという、石の建築物はありませんからね。
ディズニーランドが子供の遊園地ならば、京都、奈良は大人の遊園地と言っても過言ではありますまい。「非日常」が大人を浮き浮きさせるのです。ヴェネチアもまたある意味、遊園地です。興奮のるつぼです。しかし、「面白うて、やがて悲しき、祭りかな」、興奮というものは虚しさと表裏一体です。観光客は、興奮のただ中に居る間に、やがておそって来るであろう虚しさを感じる前に、未練を残して立ち去る方が良いにちがいありません。
【 パドヴァ 】
ヴェサリウスという解剖学者が著した「ファブリカ( Fabrica )」という解剖学書は実に印象的な図譜であふれています。骨格/筋が動的に表現されているのです。図を見れば、ああ、あれかと、心当たりの方は多いでしょう。そのヴェサリウス先生の職場がパドヴァ大学(旧)でした。解剖実習室は見学可能だそうで、パドヴァ訪問の目的はこの見学でした。
パドヴァの駅に降り立ち、「ここは広いな」と思いました。「自動車なんてものも世の中にはあったんだ」とも思いました。緑豊かです。いや、普通なのかもしれないが、ヴェネチアから来ると豊に見えるのでしょう。ヴェネチアは運河で生かされているのです。すべてのものが運河で運び込まれ、運び出されるのです。ゴミさえも。ヴェネチアでは「運河が血管」なのでした。パドヴァであらためてヴェネチアの機能とそこでの生活の大変さを思ったのでした。
旧パドヴァ大学の解剖実習室のことは話には聞いていましたが、実際に見ると「エエッ」と思います。先生が解剖するのを、まわりを取り囲んで学生が見るため階段教室になっていますが、その階段が想像以上に急なのです。格段には木の手すりが付いていて学生は落っこちないように手すりにつかまり下を覗く構造です。角度60度のすり鉢みたいな構造です(写真撮影は厳禁でした)。すり鉢の底は長さ2m、幅1mぐらいしかなくあまりの狭さのために見学者は15名ぐらいずつ分かれてその底に入って上を眺めるのです。本当は学生気分になって、上から解剖台を見たかったのですが禁止でした。
スクレロヴェーニー礼拝堂は日本からインターネットで予約をして行きました。ここも見学に制限時間があり、それは20分です。前室で20分ほどビデオを見てそれから入場です。イタリアの建物は予断を許しません。外から見ると何の変哲も無い、茶色の冴えない、どこにでも転がっているような建物に見え、中に入ると想像を絶する絢爛豪華な装飾なのですから。フィレンッエのベッキオ宮がそうです。シニョーレ広場から見て、薄汚いとは言いませんが、とてもではないが美しいとは言い難いあの建物、見るのを飛ばしちゃおうかと思いながらも中に入るとあの迫力でしょ。スクレロヴェーニー礼拝堂もそうなのです。「外見はパットしないが、やむなくつきあってみたら、ものすごく素敵な人だった」みたいなものです。
中に入ったときの天井の、宇宙に引き込まれるような青、に感嘆です。「ラピスラズリーですか」とたずねたら、そうだそうです。質問に答えてくれた、高校生と思われる2人の女の子は、本当にこの礼拝堂に惚れ込んでいるようで、それがまた素朴で初々しく、実にかわいいのです。「良いものをみた〜」、と思いました。
礼拝堂
身障者用の乗車リフト
朝市
ホテルの入り口
パン
トマトのタルタル
ヨーグルト
礼拝堂
小路
植物園
ホテルの受付
アミューズ
ロブスター
【 ボローニャ 】
ボローニャ訪問の目的は「中世が残る」と言われるボローニャの街を塔のうえから眺める事とボローニャ大学(旧)を見学することでした。ボローニャ大学もパドヴァ大学と並び、科学史上、多くの有名人が関わっている大学とのことです。
ボローニャの塔は500段弱の階段があるそうです。500段といえばヴァチカンのサンピエトロのドーモ、フィレンツェのサンタマリア・デル・フィオーレのドーモと同程度です。ガイドブックには「大変だ、大変だ」とかいてありますが、それほど心配する事はありません。途中に休憩するところがあるのと、階段の幅が広いせいでしょう。
ボローニャは壁面がオレンジ色、屋根瓦はレンガ色の家々の集まりです。道ばたの小さな花も、それが群落になっていると存在感というか、統一美の美しさが迫って来るではありませんか。塔の上から眺めるボローニャの街はそんな感じです。レンガ色の織りなす綾が眼下に展開し、「遥けくも来たな〜〜」と、たどりついた歳月を思わせるのでした。それにしてもこの色彩の統一感は偶然なんだろうか、必然だったのか、だれか為政者が決めたものなのか。ずっと昔に、金沢の卯辰山の上から眺めた、民家の黒の統一感ある甍の街並をきれいだな、と思ったことを思い出しました。
塔を目指していろいろな方向から道が集まってきます。塔を車の軸とするなら、道は自転車のスポークです。塔はボローニャの灯台の役割をしていたでしょう。夜には灯火がともったかもしれませんね。旅人は遠くにこの塔を認めた時、「あそこがボローニャだ、もう一息だ」と力と安心感が湧いたのではないでしょうか。ガイドブックや各種の旅行のサイトを見ると、塔からの写真があり、1本の道が写っています。写真には1本の道しか入りません。しかし、これからは写真を見た時、画面の外側に、塔に集まる多数の道と、道ゆく旅人の姿を想像しないといけないことを悟ったのでした。
塔から
旧ボローニャ大学の解剖学実習室も公開されています。写真撮影可です。教室は階段教室ですがパドヴァ大学に比べて勾配が緩やかです、せいぜい5度-10度に見えました。解剖台は大理石です、パドヴァと同じです。戦災のため破壊され復元とのことですが、十分面影を残しているように思えました。このような歴史遺産を目の当たりにしながら学生生活を送ったならば、学問に対する意気込み、成就、も変わってくるのではないでしょうか。
ボローニャの思わぬ収穫はサン・ペトロニオ聖堂でした。ガイドブックに「日時計がある」と書かれているので、それはどれかと尋ねると、床の一本の線を示されました。線には「双子」や「蟹」の線刻があり、時刻を刻む時計というより、月日を刻む暦のようでした。ところで、ここからどうやって月日がわかるのだろうか?質問してみると、(イタリアの子午線がどこを通っているのかしりませんが)、ここボローニャで太陽が南中するのは13:17分だそうで、その時、聖堂の屋根の穴から太陽が差し込み、丸い光がこの線に重なる事で判定するのだと教えてくれました。聖堂を初めに訪れたのは午前中早めでしたので、13時頃に最訪することしました。
最訪してこの線のまわりをうろうろしていると、13:12分頃に床の線の、蟹の線刻の近くがモヤモヤして来て、それは見る見る丸いスポットになりました。屋根の穴から差し込む太陽のスポットなのでした。スポットは徐々に動き、17分には線と重なったのです。その時気がついたのは蟹の線刻の辺りには幅1m長さ3mぐらいのロープが張られていて、人々が立ち入らないようになっていたことでした。また15分になると20人ぐらいの団体さんが来てロープを取り囲んだことです。
この暦のメカニズムを知らなかったのは私だけで、多くの人には自明のことのようでした。感嘆のため息をついたら、そばにいた、イタリア人としか思えない若い男性が「すごいでしょ、すごいですね」と日本語で言い私の顔を見ました。こんなところで、と私は、そのことにも驚きました。太陽のスポットはそれから数分後に消えました。感激に浸っているあいだに、「昼休みで堂を閉めるから外に出るように」言われました。この時私は、午前中の聖堂の開館時刻が13:30分までの意味を理解したのでした。
解剖学教室
日時計
【 ラヴェンナ 】
高坂知英さんだったか、佐貫亦男さんだったかの本に、フランスだったと思うが、教会を尋ねたら、出て来た女の子が「これもビザンタンのモザイコ、これもビザンタンのモザイコ」と自慢するくだりがあります(本の名前は忘れてしまいました)。そして彼は感動するのです。私はこの、ビザンチンをビザンタン、モザイクをモザイコと発音するくだりだけを覚えていて、モザイコ画なるものを見てみたいと思っていました。
ビザンチンと言えば、世界史で否応なく出て来る、トルコのイスタンブールを思いつきます。トルコに行こうとしたのですがこのご時世、トルコは急に危険になってしまいました。1-2年遅かった感ありです。紅山雪夫さんの「イタリアものしり紀(新潮文庫)」を読んだら、「ラヴェンナはビザンチンモザイクの宝庫である。イスタンブールよりすごい」と書いてありました。イスタンブールの替わりにラヴェンナに行ってみることにしたのでした。
地図でみるとラヴェンナは幹線から外れています。列車は通っているのですが、2時間に1本ぐらいしかなく、えらい辺鄙なところに思われました。行ったが最後そこで何かあったらもう帰って来られないようなそんな寒村を思い浮かべました。
ボローニャからラヴェンナに向かう列車の車窓は、麦畑、トウモロコシ畑、葡萄畑です。見える家々は、モルタルの色が明るく、窓が小さめのところを除けば、日本の家々と変わりがなく、ここがイタリアなのか日本なのかが分からなくなりました。私と同じような生活程度の人々が住んでいる沿線に見えました。着いたラヴェンナは辺鄙な寒村ではありませんでした。大きくもなく小さくもない街で、いわゆる human size の手頃な街に見えました。アメリカの田舎まちの風情でした。
クラッセ駅
モザイク画は7-8mmの色タイルの破片を壁に埋め込んでいって絵とします。金色に輝くタイルもあり、これは金箔をガラスにサンドイッチして焼き上げるのだそうです。この話はヴェネチアのサンマルコ寺院の監視員のかたからうかがいました。温度調整が難しい、自分には信じ難いとのことでした。
サンマルコ寺院のモザイクは金色のモザイクが多用され、入射する日の光に堂内が金色に輝くのです。人間の埋め込んだタイル面は平面にはならず、個々のタイルに少しずつの傾きができるのでそれが光の乱反射を引き起こし、よりあでやかに見えるのでした。荘厳でした(撮影禁止)。これが「ビザンタンのモザイコ」なのか、これなら彼の執心もうなずける、とため息がでました。それにしても、サンマルコ寺院にしろ、ラヴェンナにしろ、この何億枚というタイル片の埋め込み、下絵なくして絵が描けようがなく、どうやって描いたのだろ、何日、何人かかったのだろうと感嘆を禁じえません。ミケランジェロもすごいかもしれないが、無名のひとの積み重ねもすごいです。「無名の私にできる事」を思ったのでした。
ラヴェンナの教会、廟、聖堂のタイルは色タイルが多く、特にクラッセの聖堂の若草色のタイル画は心を穏やかにさせてくれる色合いでした。クラッセの聖堂は小さな黄色の花咲き乱れる、広い草原の向こうの松林の中にあり、たたずまいがこころを穏やかにさせてくれました。これら聖堂の一部の窓には黄土色の濁ったガラスがはめられているので、堂内は散乱光でボーとした明るさになり、より、優しい光となっていました。ガッラ・プラチーディアではガラスではなくアラバスターとのことで、私はそのことにも驚嘆したのでした。
クラッセ
クラッセ
クラッセ堂内
クラッセ
クラッセ
クラッセ
点描画という技法があります。スーラとかシニャックが有名です。遡ればシャルダンでしょう。網膜は多数の視細胞からなるので、網膜に投影された画像はその時点で点描になってしまいます。点描画は網膜像を絵の方に先取りしたものと言う人もいます。網膜のメカニズムを知らずにこの技法を編み出したスーラはたいしたものだ、というわけです。しかし、モザイク画を見てしまった私にはこの説はもはや信じ難いのです。彼らは、ビザンチンモザイクを見、それを絵の具に置き換える発想をしただけなのではないのかと。
暗いガッラ・プラチーディア廟に団体客が入ってきます。彼らは5分以内で出て行ってしまいます。しかし、視覚には暗順応というメカニズムがあります。暗いところに入ると目が暗さに馴れてくるのに時間がかかる(約20分)、あれです。だから、モザイク画をみようとしたら20分以上は堂内にとどまる必要がありましょう。そのことを知ってか知らずか、5分で出て行ってしまう団体さんは、見えるはずのものも見えないで終わってしまっているのではなかろうかと思うのです。もったいない。
ガッラ
サンヴィターレ-教会
サンヴィターレ-教会
【 サン・マリノ 】
小学校の社会科の時間に「ヨーロッパには国の中にさらに小さな国がある」のを習いました。その一つがサン・マリノで、そのときその名を覚えました。どんな国なんだろうと尋ねるのがあこがれでした。平和な時代が続くのは良いものです。訪れる機会が巡ってくるのですから。
サン・マリノは急な斜面を階段状に切り取ってできている街です。山頂は「天空の街」になっていて、土産物屋とレストランです。サン・マリノの産業が観光であることは間違いないが、その他はどんな産業でなりたっているのか興味津々です。こんな岩のてっぺんの街、水はどうしているのか、電気はどうなのか、他人事ながら心配です。そして、「国家とは何か」という、未だに私のなかでスッキリとした答えの得られていない命題も頭をかすめたのでした。
観光の最大のポイントは山稜に建っている3つの要塞です。チェスタという2 番目の要塞のほうがロッカ・グアイタという1番目の要塞より上りやすいし、眺めも良いです。南西側は緩やかな丘陵、北東側からはリミニとアドリア海を臨むことができます。南西側の丘陵地帯の2番目の丘陵あたりが国境のはずなのですがどこが国境なのか分かりません。谷を挟んで対峙する、タイとカンボジアの国境の緊張状態を経験した事のある私は、イタリアとサン・マリノの国境方面を眺めながら、これが小学校の時からの宿題のサン・マリノなのか、そして「平和」なのか、と一人うなずくのでした。
イタリアとの国境線はどこか
2の塔から1の塔
1の塔から2の塔
塔
展望台から
【 結 】
美術というとフランスと反射的に思うかもしれません。しかし近頃私は、美術と言えばイタリアなのではないかと思うようになって来ています。今回の旅はそのことを再確認させました。北イタリアにこんなに多様な文化が花開いているとは思いもかけませんでした。食べ物も多様で安くおいしいです。日本より食が豊な感じです。
心は洗われ、とても裕福になった気がします。充実感でいっぱいです。なんでもっと早くこの世界を知っておかなかったのだろう、と後悔しきりです(もっとも、日本での仕事をつづける気がまったくなくなってしまい、これはまずいですね)。そして、「この経験をどのように生かすのか」というもんだいもあります。
世界を見渡すなら、先人の偉業が破壊されていく現実があります。今回廻ってきた箇所がこれからどうなるのか、大変気がかりです。
パーパスさんと担当の菊池彩子さんにただただ感謝するしだいです。
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