【旅のエッセイ】 コロンビア紀行
期間:2018年7月5日~2018年7月14日
パーパスジャパン:迫田
- 美人の多い理由 -
世界で美人の多い国はたくさんあるが中南米はその中でも美人の産地として知られている。
世間ではよく3Cと言われてるが、3つのCとはコロンビア、チリ、コスタリカのことである。中でもコロンビアは世界の美女コンテストで常に上位を占めており、美人が多いことでつとに有名である。
僕の知り合いで”世界のソニー”に勤めていた人がいて、ニューヨークの駐在員の時代に彼の職場には数名のコロンビアからの女性が働いていたそうだ。その職場では日本からの駐在員の男性数名がコロンビアの女性たちを妻に迎えたということを聞くにつけ、やはりコロンビアには美人が多いんだなあと思った。
「塩の教会」の管理をしてくれているお姉さん
サルサを踊ってくれた♪
レストランのウェイトレスさん
コロンビア美人のモデルです
コロンビアの首都ボコタにメキシコから到着した時は夕方だったが、空港から外に出ると外気が身にしみるほど気温が低かった。ボコタは海抜2600mの大きな盆地にある都会で、いくら赤道が近いとはいえ夜寒いのはあたりまえのことだ。
ボコタの空港名は「エルドラード」という。「黄金郷」とはすごい呼び名だが、この地をスペイン人たちが昔からそう呼んでいたことからその名前が付けられた。
もっともこの土地の先住民族のチブチャ族が祭事のおりに黄金の装身具を身に着けていたのでエルドラードの伝説のもととなったようである。実際はそれほど大量の黄金があったわけでもないようだが、金もエメラルドもこの地ではよく採れたようだ。
海抜も高いし周りは山で不便に感じるので、なんでこんなところを首都として選んだのか尋ねてみたが、ボコタは地理的に言えばコロンビアの真ん中に位置しており、先住民の都をそのままスペイン人たちも首都としたようである。ボコタは年中同じ気温で一日に四季があると言われており、標高の高い山岳特有の気候であり、晴れたり曇ったり雨が降ったりと猫の目のよう天気が変わるのでセーターとジャンパーは常に手放せない。
僕たちを案内してくれた魅力的な女性たちに、ボコタの天気は女心と同じだねえと言ったら――その通りだと返事が返ってきた。女心は洋の東西を問わないということだ。
町の中心はボリバル広場で、中央には1819年にスペインからの独立の際の最大の功労者であるシモン ボリバルの銅像がある。当時の国名はグランコロンビア共和国で、解放者といえばボリバルのことを意味する。
ここでコロンビアの歴史のことにも触れないとならない。
シモンボリバルは19世紀前半のラテンアメリカ諸国の独立運動の立役者で南アメリカの統一を考えていた。ボリバルはベネズエラのカラカスの大富豪の生まれで名門貴族の出である(1783-1830)。彼は激動する時代のヨーロッパに遊学したことがあり、ナポレオンに仕えた経験もあるし、自由、平等、友愛のフランス革命の影響も大きく受けている。
帰国後、スペイン支配下のベネズエラの独立運動に参加して、隣国のコロンビアの独立にも大変な情熱を注ぎこみ、そして、ついに1819年にスペインの牙城であったコロンビアのボコタを制圧したのである。ここに後世に大コロンビアと呼ばれる大国(ベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドル)の独立が宣言された。
南米にはクリオーリョという呼ばれた人たちがいた。もともとの意味は現地で育った、その土地で生まれた、その土地固有のという意味で、植物でカカオのクリオーリョといえば南米原産のカカオの原種ということになる。
余談だが、チョコレートのことで専門家とショコラティエの店を訪問した際に、カカオの一番の高品質は、クリオーリョという品種で南米がその原産地であることを教わった。しかし、一般的にはラテンアメリカにおいてはクリオーリョとは新大陸で生まれた白人たちのことである。実際、ラテンアメリカの独立運動は、スペイン本国人(ぺ二ンスール)とクリーリョの間にあった格差に対する不満が高じたことから始まっている。この格差問題は南アメリカ大陸の北から南まで共通してあったことで、以前からくすぶっていた問題であったが19世紀の前半、スペインにナポレオン軍が侵攻し、スペイン本国が弱体化したのでラテンアメリカでもこの機を逃してはならないとなり独立運動が起きたのである。
しかし、独立した各国々で、スペインから奪った権益は平等には分配されず、白人と混血エリートの富裕層をつくっただけだった。そしてこの構造は20世紀になっても多くの国で変わらなかった。
ラテンアメリカの場合、政権転覆にはしばしばクーデターによるものがおおく、選挙でえらばれていないリーダーがいた。それは民主化の程度ともかかわりがあるが、一方では米国がしばしば独裁者に率いられた保守的政権下で得た米国の権益を守ろうとして、政権に軍事援助を行ったり、新たに誕生した進歩的政権を弱体化させたりしてきたことも事実である。
美人の話に戻るには、16世紀から新大陸にやってきた人たちのことを説明する必要がある。
メキシコのアステカ王国は1521年に征服者コルテスにより滅ぼされ、インカ帝国はピサロにより1533年に滅ぼされた。さらに、スペイン人は1536年にブエノスアイレスを建設し、1542年にはペルー(リマ)とメキシコシティに副王を置いて別々に統治することにした。
トルデシリャス条約でブラジルの保有しか認められなかったポルトガルはインドからサトウキビをブラジルに移植して大成功、大きな利益をもたらすことになる。さらにブラジルで金鉱が見つかり、ゴールドラッシュも始まったのでポルトガルにとりブラジルは金の卵を産む鶏となった。
スペインの植民地にも幸運がおとずれる。1545年に現在のボリビアのポトシで、1546年にはメキシコで銀山が見つかり、当時の世界通貨が銀であったためにスペインは豊かになったのである。しかし新大陸の先住民はスペイン人をはじめとする欧州からの征服者の酷使と虐待、そして一番の原因となった病原菌によりバタバタと死んでいき人口が激減する結果となる。この人材不足を補うためにアフリカから1610年から1870年までの間に1000万人の人たちが新大陸へ連れて来られてしまう。
コロンビアでは白人とアジア系の先住民とアフリカから奴隷として連れてこられた人たちが共存して住んでいる。この国は混血の人たちがとても多いことが旅をしているとよくわかる。内陸部の高地は先住民と白人系の人が多いように見受けられ、海岸沿いの熱帯地域にはアフリカ系の人たちの子孫が多く見られる。
コロンビアで美人のことも現地の人たちに聞いてみた。みんなが曰く、混血による絶妙のコンビネーションがうまく働いたせいだろうと言うのが返事だった。
現地の人たちとの会話の中で、彼らのルーツについても聞いてみた。アフリカ系の血の濃そうな人、まったく100%が白人だと見える人、半分半分かなあと思える人――、先住民と白人とアフリカ系とみんな混ざっている人――それこそ千差万別でいろんな人がいた。
彼らの共通した返事は――多くの人が自分のルーツを知らないこと、全くそれを気にしていない事だった。
僕を案内した23歳の女性はグリーンの瞳をもち、茶色の髪で色の白い魅力的な人だったけど、自分のルーツはわからないと言うことだった。彼女が曰く、そんなことどうだっていいじゃない、私はコロンビア人よと。
これが美人の多い理由ではないのだろうか?
僕が会った多くのコロンビアの人は自分のルーツを気にしない、どこの国からご先祖がきたからっていいじゃない――人種なんて気にしない――お互いが気に入り、わかり会えば、結婚して家庭をつくればいいじゃない――それが絶妙のコンビネーションで美人が多くなったんだろうと思う。
ときどき町ですごい美人を見かけるが、連れの男性はごく普通の顔立ちだった。日本の男性もコロンビアで美人と見つけるといい―普通の男性でももてるかもしれませんね。もちろん絶妙のコンビネーションは男性にもいます。
- ボコタの滞在 -
肝心のボコタの観光にも触れないとならない。
< 黄金博物館 >
なかなか見ごたえのある博物館で黄金という名にふさわしい製品が陳列されている。プレコロンビア文化の遺物を地域や文化、テーマごとに分けて展示してあり、どれも見事な出来栄えで目がくらみそうである。ここだけは時間をかけてじっくりと見学することをお奨めしたい。
< モンセラーテの丘 >
市内を見下ろす標高3160mの山。市内との標高差は500mで、山頂からはボコタ市内が一望でき、晴れていいれば遠くの山々まで見渡すことができる。お天気次第ではかなり寒くなり、念のためにセーター、ジャンパーをお忘れなく。
- 郊外のシバラキの町 -
ボコタから北へ48km、車で1時間半ドライブするとシバラキの町に着く。
ここには岩塩の採掘場があり現在も採掘されているが、地下には塩の教会がある。採掘された大きな空間には大聖堂がつくられ、世界最大の十字架がライトアップされとても幻想的である。今まで、こんな教会を観たことが無かったのですごいなあと感じた。
塩の教会
この町の旧市街地は町の中心でもあり、教会をみたあとで広場の周辺を散策するとまるでスペインの田舎町を歩いているような錯覚に陥る。
以上はガイドブックにも書いてある観光地で、一度は訪れないといけない必見の観光地であるが、お奨めは他にもある。それは市内にあるローカルマーケットで、朝早くから地元の人たちの集まるところでもある。
まず花の市場があるが、何とも色鮮やかでしかもとても安いのである。立派な菊の花の一束約10本が100円、なんと1本は10円――日本から来た人には信じられないほど安い。
花市の白い菊の花束
市場には朝ごはん用のパン屋さんがあるが、これがまたうまい――熱々の焼き立てを食べさせてくれる――まるで日本のお焼きみたいだが、ホテルのパンなんて比べものにならないほど市場のパンは美味しい。
そして極めつけはフルーツ市場の果物の食べ比べで、中でもシュガー・マンゴーという小さなフルーツが甘くて甘くて本当に最高だった。
マーケットのフルーツ売場
シュガー・マンゴーがおいしい♪
コロンビアと言えば美人とコーヒーの国だから、ボコタにもコーヒーはこだわりのカフェがあるので美味しいコーヒーを飲ませる専門店に行きぜひとも味わってもらいたい。訪れた店の名前を San Aleberto といい、自ら農園をもち自慢の豆を挽いて飲ませる直営店である。この店はコーヒー講座も開催しており、一度その体験もお奨めしたい。
★ボコタの美味しいレストランガイド★
Andres carne de Res ( http://www.andrescarnederes.com/ )
――地元の人ならだれでも知っている有名店で、美味しい牛肉のステーキを食べたいのならここに行くといい(夜は音楽も演奏している)。
ステーキ!(脂身がないのにジューシー!)
- メデジンの滞在 -
ボコタのあとは第2の都会であるメデジンへ。
メデジンの中心街(ボテロの作品がいっぱい)
アンテオキア州の中心地がメデジンで、人口300万人、郊外を含むと400万人ともいわれる都会である。ここは僕の知る限りで世界でも3本の指に数えても良いほど快適な気候の土地である。海抜1500mの高地であるが赤道が近くにあるので、ちょうどいい気温で高地だけに湿度もほどほどだ。しかも年中同じ気候の18度から28度なのである――スペイン語でCiuda de la Eterne Primavera――常春の町という意味で、これほど過ごしやすい気候の土地が他にあるんだろうかと思うほどだ。
欠点と言えば海が遠い事だけだ。もっともアンテオキア州も海辺に面したところあるがメデジンからずいぶんと遠い。コロンビアは日本の3倍もあるのだから国土面積も大きい――しかもアンデス山脈が国土を貫いている――3000m級の尾根、5000m級の高い峰――だから気候は千差万別で、これほど同じ国内で気候に差のある国もめずらしい、この国はミニカントリーの集まりで地方ごとに特色がある。
メデジンと言えば、日本人はまずメデジンカルテルの麻薬王のことを思い浮かべる人がいると思う。
南米を舞台にしたアメリカの映画では、麻薬となるとコロンビアのメデジンがその舞台だった。そう、確かに昔はそうだった――危険地帯と麻薬の親分がいて治安に問題があるとか言われてきたので、今でも危ないと考えている日本人もいる。
しかし今やもうそんなことはない。1980年代麻薬王と言われたパブロ エスコバルはメデジンカルテルをつくり町を支配していた。それに終止符を打つきっかけは1993年にボスのエスコバルが警察に追われ逃げる途中に屋根の上で銃殺されたことだ。政府と市はメデジンのスラム街をきれいにすることを決断する。そして軍隊と警官とで麻薬を中心とする犯罪組織のクリーンナップを作戦を実行に移した。
2002年10月ウリベ大統領の命令により、1200人の兵士と1800人の警官がスラム街を包囲して町の斜面にできた巣窟を攻めはじめる。丘の上から下の兵隊を狙う狙撃主に対しては空の上からチョッパーと呼ばれる空軍の武装ヘリで掃討した。そして、作戦は終わり、町には平和が戻ったのである。今でもそのスラム街は残されており、40万とも50万ともいわれる貧しい人たちが住んでいて、この地区のことを正式には――コムナ13(Comuna 13 )という。
市は総力あげて貧しい人たちが犯罪に走らないように努力しており、収入に応じて公共機関の割引をしたり、教育も無料で受けられるように援助しているので治安は回復し、町を自由に歩けるようになった。車の入れない狭い路地の急な斜面を歩いて上り下りする住民のためにエスカレーターも完備されている。もっとも部外者は単独で路地裏を歩いてはいけない、まだ一部の犯罪者がいるという話もある。
コムナ13の町
貧しい住人のためのエレベーターが出来た
今では、そのスラム街は観光客がガイド付きで1、2時間のウオーキングツアーができるようになっている。実際、そこで体験をしてきたが、じつに興味ある感慨深いものだった。そして、かつてはここが犯罪組織の巣窟であり、部外者には危険極まりない地区であったことが歩いて回ることで実感できた。
町で住民とも会い、話もしてみたがとても穏やかでいい人たちだったのである。スラム街の入り口には大きな絵が壁に描かれ――スペイン語で文字で――エスペランサ(希望)とあった。ここの住民たちがみんな希望をもって生きてけるようにという強い願いがこめられていた。
この絵の近くに「エスペランサ」と大きく書かれている
- アンテオキア州のメデジンをベースにして日帰りの観光を楽しむ -
アンテオキア州には125の魅力的な町や村が点在している。基本的には山の国で、険しい山々が連らなる山間の大地には移住した白人たちがつくった町や農園があり年を重ねてきた町は歴史をつくりだし、手入れされた農園はコーヒーをはじめとした農作物のできる豊穣の地である。
ここでは実にたくさんの農作物が出来る――コーヒーをはじめとして、オレンジ、レモン、アボガド、パイナップル、ガヴァ、バナナ、イモ類、ハーブなどなど。コーヒー農園以外は大規模な農家は少ない――斜面につくられた畑は器械化がおくれており手作業も多い。
しかし、ここで作られるトウモロコシは美味しい。一度、田舎の小さな店でトウモロコシで作るパンをいただいたことがあるが、本当に美味しかった。土地のガイドさんが――僕はこの道を通るときは朝ごはんは食べないことにしている、だってここのパンをおいしく食べたいからと。
新大陸にはもともと鶏も豚も馬もいなかった――あとで欧州とアジアの国々からもたらされたものである。しかし、コロンビアには美味しい鶏をたべさせてくれるファストフードのチェーン店がある。なまえをココリコという――これが全国の空港にも店を構えている。アメリカのフライドチキンのチェーン店が日本にもあるけど、断然ココリコのほうがうまい!コロンビアで食べる物に迷ったら、ココリコにいくといい。おすすめはフライドチキンである。
コロンビアにはマグダレナとカウカという2つの大河があり、2つの河は合流してカリブ海にそそいでいる。河の渓谷や盆地には温暖で肥沃な農耕地が広がり主要な町の多くがここにあり、この山岳低地にコロンビアの人口の75%が住んでいると言うことだ。
ドライブしてみると本当に風光明媚でどこまでも連なる山々の美しい風景が目の前に広がっていた。メデジンから3時間でヘリコの町に着いた。教会とその前にある市民の憩う広場、周辺の町並が歴史を感じさせる路地裏、カフェとレストラン小さいけどいい町である。
ヘリコの町の教会
ヘリコの町並
近くには有名なコーヒー農園があり訪れる人を案内してくれ、コーヒーをはじめとして様々なフルーツなどの農作物も栽培されている。なかでも農園の女将さんが作ってくれるコーヒーをベースにした冷たい飲み物の味は忘れることが出来ない。余りにもおいしいので材料も聞いてみたが、とても簡単には作れるものではない事だけは理解できた。念のために――フローズンコーヒー、バニラエッセンス、パウダーミルクとコンデンスミルク、チョコレート、カラメルソース最後にお酒のアマレット。
おいしいコーヒーを使った冷たい飲み物
- ペニョールとグアタぺの町へ -
メデジンから車で1時間半少々でぺニョールに到着する。ここは電気を得るために水力発電用のダムができたので昔からのぺニョールの村はダムの底に沈んでしまった。せき止められた川は大きな湖となり、かつての峰や高い丘が小島や半島となって水面に浮かび、そこには別荘とホテルがつくられて高級リゾートとなっている。近くにはもう一つグアタぺという町もあるが、この2つの町の近くにはピエドラ デル ぺニョールという岩山がある。
岩山の高さは登山口から約200mの高さで700段前後の階段があり、その階段を登ればすばらしい眺めが待っている。急な階段はきついけど、展望台からの景観を見ると疲れが吹き飛んでしまう。その眺望を求めて世界中から多くの人が訪れるようになり、大変にぎわって今や一大観光地と化している。
ピエドラ デル ぺニョール
この岩山を登る
眺望
土地の人の話によると、この岩山とその周辺の土地は農地だったが岩のせいで土壌が農業には向かなかったため4名の跡継ぎの子供たちは誰もその土地を引き継ごうとは言わなかった。
しかし、一人の子供が誰も引き継ぎ手がいないと言うのならと農地を引き継いだ。跡取りが農地を耕しながら岩山に登ってみたら、眼下には素晴らしい景観がまっていたのである。そうこうするうちにロッククライミングの愛好家もやってくるようになり、さらにその景色の評判は広まっていったので、持ち主は岩山に木造の階段をこしらえて入場料を取り始めた。階段があると誰でも登れるようになる――そうこうするうちにものすごい数の人が訪れるようになり、その人たちのために宿泊施設、食堂、お土産屋さんも数を増していった。
今では、その収入は莫大なものになり階段もセメントで補強され、さらに安全に登れるようになり、その一家は大金持ちとなった。厄介者だった岩山が大金をもたらすなんて人の運なんて本当にわからない。今でもこの岩山とその周囲の土地は子孫たちの持ち物である。
岩山の近くにはグアタぺの町がある。
カラフルなことこの上ない色使いでメルヘンの世界に引き込んでくれる。この町はド派手な色が各家にペイントされ、訪れる人たちを魅了している。何でこんなことになったかと言うと、市長のアイデアで町おこしの一環として各戸に思い思いの色で家の壁に彩色をほどこすようになったそうである。それが見事に当たり、大勢の訪問客がくるようになった。
この周辺の土地は海抜が1800mほどであり、別荘で週末を過ごすための格好の場所でメデジンにすむお金持ちがセカンドハウスをもっているようだ。
グアタぺの街角
★アンテオキア州での食事の思い出★
パンデケソ (Pan de Queso) : トウモロコシの粉とチーズを混ぜて焼いたパン
タマル (Tamal) : トウモロコシの粉、豚または鶏、ポテト、オニオン、ガーリックを
葉っぱでまいて蒸したもの
サトウキビジュース : 甘いのでよく飲まれているが、種類がある
グアラポ (Guarapo) : 冷たいジュースにレモンを加える
グアンドロ : ジュースを煮て、どろどろにした黒糖
アグア パネラ : 黒糖をお湯で割って飲む。アグア パネラにコーヒーを足したのもある
パンデケソが焼きあがった
タマル
- カルタヘナの滞在 -
メデジンをあとにして空路、カリブ海のリゾートに足を運んだ。カルタヘナは海辺の港町として築かれ発展した町で、ペドロ デ エレディアという人が1533年に上陸してから歴史が始まっている。スペイン人たちは絶好の位置を活かして南米各地からの金銀財宝や物産を運び出す港町として大きく発展させた。1650年には大河マグダレナへつながる運河も完成し、交易の要所としてもますます栄えることとなったのである。
しかし、16世紀から17世紀にかけてカリブ海には海賊が横行し、港町の財宝を狙い略奪や襲撃が繰り返された。16世紀の末には有名な英国の海賊フランシス ドレイクもやったきたそうである。サーフランシスドレイクは英国王室公認の海賊の親分で、1543年に生まれ1570年から海賊家業に転身し、1588年の有名なスペインと英国とのアルマダ海戦にも参加してる強者である。カルタヘナにもやってきて、教会を半分壊し町の住民からも金品をせしめている。ドレイクは1596年にパナマのポルトベーロの沖で赤痢で亡くなっているのだが、やはり海賊は畳の上では死ねないようだ。
その被害を防ぐために造られたのが標高40mの丘に築かれたのがサンフェリペの要塞である。1656年に基礎工事が始まり最初は小さなものだった。しかし、これでは英国の海賊の襲撃は防ぎきれないとなり現在の壮大な規模の要塞は1763年から19年にわたる歳月をかけて1782年に完成した。この地域で最大の要塞が完成してからは、いかなる海賊の攻撃もこの要塞を,攻略できなかった。
サンフェリペ要塞
カルタヘナの旧市街(昼)
カルタヘナは城壁に囲まれた旧市街がある。
要塞都市のカルタヘナは昔の面影がとてもよく残されており、滞在するのなら旧市街にホテルを取ることをぜひともお奨めする。
城壁の上を歩くこともできる、町の目印が大聖堂だから迷うことも少ない。夜の町を馬車で一周してもいいし、陽が落ちてからは旧市街は音楽の漂う楽しい町と化す。観光客の初心者でも楽しめるサルサを教えてもらえ、みんなで一緒に踊れる店もある。
スペインの植民地時代、カルタヘナには多くの奴隷がアフリカから連れてこられたので、その子孫が大勢住んでいるせいもあり、ストリートミュージックが町の各所で行われ、音楽の町としてもにぎわっている。
旧市街を楽しむための夜のお楽しみのコースがある。
フーディズという組織のガイドが旧市街を有料で案内してくれる――夜の酒場巡りみたいなもので食文化を訪ね歩き、レッスンを含むサルサの入門体験もできる。( www.foodies.com )フーディズは食の研究もしているので、どのレストランが美味しいのかもよく知っている。
一番のお奨め:Demente Tapas Bar ( 場所:Plaza de la Trinidad )
カルタヘナ 旧市街の夜
一つの国だとは思えない国がコロンビアである。
その地域により、住んでいる人たちも違う、文化も違う、まるでいくつもの国を旅しているようだった。
それがコロンビアの旅の大きな魅力である。
関連リンク