ラテンアメリカと聞くと日本人はどこを思い浮かべるだろう?
コロンブスが1492年にインドだと勘違いした地域に到達し、これが後になりアメリカと呼ばれるようになる新大陸にスペイン人を中心とする多くの人たちがやってきた。そうして彼らは最初に名付けた呼び名をいつまでも変えないでインディアスと呼んだ。
航海術の発達していない中世から空想が生んだふしぎの世界から新しい世界へと欧州からやってきた人はここがどんな土地なのかまるでわからなかった。南米にはアマゾン(女人族)、パタゴニア(大足族)など誤解が生んだ地名が今に残る。
一口にラテンアメリカと言っても北から南まで、スペイン語圏だけでも18か国、これにポルトガル語のブラジルを加え、旧フランス領のハイチを加えると20か国となる。北アメリカとなると北米自由貿易協定(NAFTA)のあるカナダ、米国とメキシコの3か国で、中米と呼べるのはメキシコのさらに南となり、やっぱりメキシコは北米だということになる。
昔、僕が買ったドーナッツ版のレコードの裏面にサウス オブ ザ ボーダー(国境の南)という歌があった。あとでしらべてみるとこれはナットキングコールの十八番だったようで、かなりの名曲だとわかった。
アメリカ人から見たらメキシコは国境の南だからしょうがないけど、メキシコほどアメリカに翻弄された国はない。メキシコの独裁者ディアスはこんなことを言っている――哀れメキシコよ、神からあまりにも遠く、米国にあまりにも近い。かつての領地であったテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアもアメリカに取られてしまった。
もう一つアメリカの影響の大きな国が中米にはある。
それがパナマ共和国である。
国庫収入の多くを占めるパナマ運河は、アメリカがつくり、それをあとでパナマが国有化したからだ。そのために、独立国家であるにもかかわらず、通貨は米ドルである(通貨としてコインはないわけでもないが)のみならず国を守るための軍隊もアメリカにおんぶにだっこである。
パナマと言えは運河だが、これをつくることはそれこそ多くの先達が考え、計画をして、諦めた。それほど、パナマ地峡に運河をつくるという工事は難題であり、かのスエズ運河を成功させたレセップスも失敗している。
それでもアメリカは運河の掘削に成功するのだが、それ以前に同じアメリカの私企業がパナマ地峡に鉄道建設を計画した。無謀と言えば無謀な工事で、何度も挫折を繰り返したが、1855年の1月17日にパナマ鉄道は、多大な犠牲を払い、艱難辛苦の難工事の末に完成する。当時のこの地帯の熱帯雨林は、風土病の地で、マラリアと黄熱病が蔓延していた。
鉄道をつくったのはアメリカの船会社で、アメリカ東海岸と西海岸を蒸気船と鉄道で結ぶ画期的な交通網が出来上がり、パナマ地峡鉄道ほど莫大な利益を生んだ企業はないというほど儲かった。 当時、まだアメリカ大陸横断鉄道はなく、この経路がもっともはやくアメリカの東西をむすんでいたからで、いまでも鉄道は太平洋側にあるパナマ市と大西洋側にあるコロン市を結ぶ全長77kmの鉄道は世界最短の大陸横断鉄道で太平洋と大西洋を結んでいる。
後で完成したパナマ運河に沿って走るのでパナマ地峡鉄道とも言われるこの鉄道が走る地域は南北アメリカ大陸を結ぶ低地の熱帯雨林にあるので、多彩な鳥類や動植物が生息し、自然環境が豊かである。
今でも平日に一往復のみであるがパナマ市とコロン市を運行していて、途中パナマ運河や熱帯雨林の中を走り、車中からこれを見る人を魅了する。パナマという地域の大西洋沿岸にはコロンブスも第3回の航海のおり足跡を残している。それは現在のポルトベーロの入り江らしいが、近くにある町はコロンと言い、コロンブスにちなんで名づけられパナマ共和国第2の大きな市である。ちなみに1513年にバルボアが太平洋岸に到達して、この地域が地峡であることを発見する。
実は、完成直後のパナマ鉄道には日本人も乗車している。1858年に締結された日米修好通商条約の批准書の交換は米国のワシントンでとりおこなわれており、江戸幕府は1860年の初め、外国奉行を正使とする一行を派遣することになり、サンフランシスコへ着いた。そして別の船に乗り換えてパナマへ、そこでパナマ鉄道に乗って地峡をとおり再び船に乗り換え、東海岸へと旅をしている。
パナマ鉄道の繁栄は長くは続かなかった。1868年にアメリカ本土の大陸間鉄道が完成するからである。それでも運河をつくろうという意欲はあり、前述のフランス人のレセップスが1880年に難工事に挑戦、とうとう挫折している。その原因の一つとして、伝染病があったと言われている。
米国による運河の建設は1903年にスタートして、多くの年月を費やして1914年に完成する。こうしてカリブ海のある大西洋と太平洋を船で結ぶことができるようになった。この難工事が完成するのに利用されたのがパナマ鉄道で、運河をつくるための工事の機材の運搬に大変に役立ったようである。
パナマ運河の観光はこの国の目玉商品でもあり、大型船の通過をまじかに見ることが出来るポイントがミラフローレス展望台で船は大体40分ほどをかけて閘門(こうもん)を通過する。
閘門はミラフローレス(2段階)とペドロ ミゲル閘門(1段階)、ガトゥン閘門(3段階)があるが見学はミラフローレスだけで、通過時間に合わせて展望台にいくことになる。一番大きな船の通過料は1億円ほどするというから、この運河の持つ価値がいかに大きいかがわかる。
余談ではあるが、日本が太平洋戦争で無条件降伏の調印式がとりおこなわれたのは戦艦ミズーリ号で、この船を建造する際には、横幅はパナマ運河を航行することができるサイズで設計されている。日本の誇る戦艦大和は横幅が大きすぎて通過できなかったので、旧日本海軍はパナマ運河を通過して大西洋に抜けることは考えていなかったようだ。
首都パナマシテイはこの運河の近くにある町で、1519年にスペインが太平洋岸で最初に築いた植民都市である。その最初の場所は現在はパナマビエホと呼ばれる歴史保存地区となり、世界遺産に認定されており、観光客はかならずといっていいほど訪れる観光地となっている。スペイン人が造った居留地は先住民族を奴隷にして周囲に住まわせており、スペイン人500人ほどと合わせて2000人ほどが住む砦のある町であったようだ。
インカ帝国の黄金などの富はこのパナマビエホで集められて、パナマ地峡をとおり陸路で大西洋岸のポルトベーロに運ばれてスペインへと送られた。パナマがお宝のある町だとだれもが知るようになったころ、海賊がたびたび襲うようになった。スペイン人も海賊対策にはカリブ海の沿岸の要所には要塞を築き大砲を置いて海賊対策をしている。
そのいくつかの要塞は今でも保存されており、世界遺産として登録されており、ポルトベーロの町に行くと要塞の見学ができる。「カリブの海賊」という映画があるくらいだから、海賊はこのころたくさんいた。しかし、有名どころとなるとその多くは英国王室の私掠船で軍艦並みの装備を持つ当時としては大きな船であり、そのなかにヘンリーモーガンもいる。ヘンリーモーガンは後で女王陛下からサーの称号をもらうくらいだから、英国王室御用達の海賊であることに間違いはない。
1671年、この町をヘンリーモーガンは襲い町を壊滅させている。彼が襲った後は、町を再び再建することが出来ないほど町は徹底的に破壊され、現在では焼け残った教会と修道院がのこるのみで遺跡を見て歩くことになる。実は大きな大聖堂は海賊が襲う前に敗戦を悟ったスペイン人たちが自ら破壊したもので、海賊のせいではない。
守備側の責任者はサンチャゴ騎士団のグスマンという人で敗戦後も生き残りスペイン本国に戻っているのだが、セビリアの町で責任を問われ裁判にかけられている。ちなみにサーヘンリーモーガン(1634-1688年)は本国ではなくジャマイカで53歳で亡くなっている。
最初の植民都市を破壊されたスペイン人は近くに新しく町を建設することになる、それがカスコアンテグィオ(旧市街)で、町の建設は1673年に始まり現在に至っているのだが過去5度の大火に見舞われ旧市街地は寂れてしまった。現在の新市街はその近くにあり高層建築が立ち並び商業地区もここにある。
寂れた旧市街地は再開発がすすみ新しくリゾートタウンとして生まれ変わりつつある。
そのモデルとなったのが、米国のニューオーリンズにあるフレンチクオーターで旧市街は昔の賑わいを取り戻している。カスコアンティグオも世界遺産で街歩きはとても楽しく、気の利いたカフェ、ブティック、バル、有名なパナマハットの専門店、素敵はホテルなどが軒を連ねており、観光としてパナマを訪れる人は旧市街に宿をとることをお奨めする。
パナマハットは実はパナマで作られてはいないが、名前がついているだけに専門店がある。価格は25ドルから500ドルくらいまであり、高級品ほど細かい繊維でち密に編まれているが手軽にかぶるのなら50ドルくらいの帽子でも充分に役に立つのでお土産に最適だ。
パナマシテイの郊外には見どころが多い。
熱帯雨林とそこに住む先住民、花などの植物、猿や鳥などの動物たち、そしてスペイン人が造った要塞の跡である。
チャグレス国立公園には密林の中に暮らすエンべラ族の住む村がある。パナマ国内には約1万人が暮らすといわれており、その多くはコロンビアに国境を接する地域に暮らしいる。モーターボートを利用するくらいだから、ある程度は現代文明の利器を受け入れているのだが、その多くは自給自足の生活をしている。そして、チャグレス国立公園にすむ一部の集落は生活の糧を観光業にも依存しており、観光客を受け入れてる小さな部落を訪れてみた。
パナマ市内から車で1時間走り、更にエンべラ族の操るボートで30分ほどで村の入り口に着く。
みんな総出で出迎えて歓迎してくれたが、その顔立ちは日本人とそっくりの人が多いのに驚いた。もとはと言えば、いまから15000年ほど前に凍っていたベーリング海峡をこえてやってきたアジア系の子孫だから似ていても不思議ではない。
彼らの生活はシンプルそのもので、大自然の中でその環境に適応して長い間暮らしてきたことがわかる。食料はバナナ、マンゴーなどのフルーツと野菜と魚ーーシンプルな味付け。
わずか80人前後の村人から選挙でえらばれたリーダーは30歳代半ばの好青年で、昔ながらの生活を維持することと、現代の文明を取り入れることの難しさなども話をしてくれた。特にリーダーだからといって他の村人と比べて特別な経済的な特典などなく、リーダーとしてふさわしい人物を村人は選んでいるそうで、どこかの政治家に聞かせてやりたい話だと思った。
ふと自分がこの村に今住んでみたらと考えてみた。
文明におかされた自分がこの大自然の過酷な環境の中で生きて行けるだろうかと?やっぱり無理な話だと思う――ここで住むにはタフな体が必要だと――赤土の大地は雨が降るとぬかるみ、裸足でないと歩けない――上半身裸では肌の皮膚がもたない――過酷な労働に耐えるだけの体力はない――村人は何千年もこんな環境での生活に適応してきている。
村の古老がこんなことも話してくれた――昔は糖尿病の人なんていなかったけど、今では2名の村人がそうなんだと――文明の波はこの村にも押し寄せてきているようだ。
チャグレス国立公園の中にはガンボアという熱帯雨林のリゾートがある。
敷地内には立派なホテルもあり、ここに滞在して熱帯雨林を楽しむことが出来るようにつくられている。施設内にはトラムで熱帯雨林の上を展望台まで上がり景観を眺め、カヌーでの川遊び、大物のゲームフィッシュであるターポンの釣り、運河をつくる際に出来た人造湖であるガトゥン湖の遊覧を楽しむボートツアーなどが用意されている。
トラムによる熱帯雨林を空中から見るツアーに参加してみた。真下には樹林が広がり緑が目にまぶしいほど、近くにはエンブラ族の部落もあり、展望台からはすぐ近くにあるパナマ運河がよく見える。運河をつくるために出来た人造湖のクルーズでは、水かさが増して残された高い山は島となり点在している。
島には猿をはじめとする動物が住んでおり、ボートが近づくと餌をねだりに船の舳先まで下りてくるのを見学できる。島に住む猿にはいくつかの種類があり、食べ物の好みも違うようで、フルーツが好きな猿もいればピーナッツが好物の猿もいた。熱帯雨林の観光はとても楽しいものだった。
パナマ共和国の観光は運河と熱帯雨林だけではない。
熱帯雨林の蒸し暑い気候に疲れたら、高原にある山岳リゾートの町へ行けばいい。
ボケテは海抜1100m前後の高地にあり、年間を通じて花が咲き乱れる快適な気候の町で花と永遠の春の谷と言われている。パナマシテイから飛行機で1時間ほどでパナマ第3の都市ダビに着く、そこからさらに35kmでボケテの町に着く。近くには標高3475mのバル―火山があり、チリキ高原には多くのコーヒー農園がある。
ボケテはコーヒーの国内生産の70%を占める一大コーヒーの生産地であり、最高級ブランドのゲイシャ種の知られている。ゲイシャ種のコーヒーと日本の芸者とは何の関係もないが、同じ発音だから親しみが持てる。そのゲイシャ種の豆をつくっているコーヒー農園を訪れた。レリダという農園では電動カートで専門家が農園を案内してくれるので、コーヒーのことがよくわかるようになる。
コーヒーの栽培は大変な手間がかかり、労働集約産業ともいえるのでここでも多くの先住民がコーヒーの木の摘み取りと剪定に従事している。ここでも先住民族がボケテの郊外には大勢住んでおり、電気も水道もない昔ながらの生活をしているいて、いまだにスペイン語を話さず、先住民の言葉で会話をしている。
ボケテは大自然囲まれた山岳リゾートでもあり、緑したたる丘や谷はトレッキングを楽しむには最適のためホテルも素晴らしいのがある。中でもお奨めはパナモンテで、わずか14室の由緒あるホテルはかの女優イングリッドバーグマンも愛用していた。
このホテルで特筆すべきはチャーリーコリンズさんというオーナーシェフが経営しているので食事が美味しいことで、ボケテに来たらこのホテルに泊まり、美味しい食事に舌鼓を打ち、ゲイシャコーヒーを食後に味わうといい。