ポルトガルの世界遺産と小さな街を巡る8日間
期間:2018年9月9日~2018年9月16日
T.N.様 & H.N.様(私どもは還暦を過ぎ、少し薹(とう)が立った夫婦です。)
私は、18歳の時にFadoを初めて聞き、その情念に満ちた旋律に魅せられて、いつか本場のファド酒場で、鰯をアテにしてワインを飲み、本物のファドを聴きたいと思い続けてきました。あっという間に50年が経過した今になって、漸くその念願がかないました。その満足の旅を皆様にお届けします。
私どもは商品化されているコースの逆をたどり、先ずはポルトに入り、コインブラ、オビードスをめぐってから、最後にリスボンでFADO酒場に行くのをメインイベントとしてプランしていただきました。結果的にこのコース取りがよかったと思います。
ポルト、コインブラ、オビードスなど比較的小さな町は、徒歩で敷石を踏みしめながらじっくり史跡を見学することが出来、最後の大都市リスボンではFADOに浸るだけに絞った旅を完成することが出来ました。そのうえ、リスボンのアマリアロドリゲスの家が今では博物館として開放されていますが、16歳の時から住み込みで彼女に仕えてきた女性(今ではキュートなおばーちゃん)から直接に、そして非常に丁寧な説明を聞きながら、生前のアマリアと同じ空気を呼吸することが出来たことで、この旅に大満足することが出来ました。
9月9日 10:30 成田発
9月9日 19:50 ポルト着 この日は、そのままホテルに落ち着きました。
9.10 @ポルト泊
昨夜は、20時過ぎにホテル着。夕食を外でしようか悩んだ末、部屋を出ずに妻が持参した非常食で簡単に夕食を済ませ、ポルトガル初日は速やかに寝ることを選択した。
翌日、ポルトガル最初の目的地ポルトの街で、昼食をとろうと入った街角のレストランで、イの一番に40年の時空を超えて口をついて出たのは、“Primeiro, eu quero beber uma cerveja!” なるフレーズが超自然に口をついてこぼれ出た。『先ずは、ビールを一杯飲みたい。』という意味だが、何も考えずに、無意識下から呼び起こされたポルトガル語のフレーズに当の本人がビックリしたことと、それが間違いなく通じたことに2度ビックリ。幸先の良い旅になるだろう。
なお、ポルトガル語のフレーズが “ Eu quero vinho branco (tinto) depois da cerveja.” 「ビールの後で白(赤)ワインが飲みたい。」に進化するまでの時間は殆どかからず、造作もなかった。
サンベント駅構内のアズレージョの壁画。ポルトの歴史が壁面タイルに表現されている。ジョアン一世関連
ドンルイス一世橋からの眺望。ドウロ河沿いのポルトワインの工場(現役)。ワインセラーの見学とテイスティングができたが、早く飲みたいので見学は回避ヽ(^o^)丿
グレゴリスの塔の頂上から見たポルト市内の眺望
ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院からポルト市内を眺望する。
9.11 ポルト → コインブラ 特急列車2等指定席に乗ってコインブラ泊
驚くなかれポルトガルの電車は、ホームでも、車内でも出発の合図がなく、行き先等のアナウンスも全くなし、電光掲示のみ。ただただ驚き、正しい電車に乗ったのか、非常に不安で恐ろしかった。(>_<)
コインブラは大きな学生の街である。坂道が続くが、どの道を通っても行き着く先は大学キャンバスである。古く、かわいらしく、街全体が学問の府という落ち着きが感じられる。
ポルト→コインブラ行きの特急列車。およそ250㎞くらいで走る
インブラ大学の女学生達、手に持っているのが「黒マント」である。暑い日にも欠かさず羽織るのが、彼らの『粋』なんだろう。
コインブラ大学
古い時代のコーチ
AO CENTROの面々;コインブラ・ファド;男の純情を感じてしまうほどの男性ファド、情念ではなく透明感!!
今回の旅行で初めて見た窓の生花の花飾り
古色たる趣があるというべきか!?今夜のHotelAstoria(おそろしく古いホテル)
コインブラの迷路のような街角
国立マシャード・デ・カストロ美術館(ローマ時代の遺構の上に建つ)
BICのボールペンでメルヘンチックな絵を描く作家さん
今宵(9/11)のメインディッシュのタコ飯(西洋人も蛸を食べるのです)
9.12 オビードス泊
(専用車で移動;コインブラ → バターリャ → ナザレ → オビードス)
朝、専用車のお迎えが、予定時間よりかなり早くホテルに到着していたようだ。ドライバー兼ガイドのおにーさんとの会話は、私の知る限りのポルトガル語(両手で数えるくらいの語彙)と残り全ては英語で。おおむね、会話は成立。
1388年に建築が始まったバターリャ修道院の見学時に、今回の旅行での最大の失敗をしてしまった。修道院の駐車場が非常に狭いので既に満車。そこでドライバーの提案で、我々が見終わったときに私の携帯で彼に電話し、近くの停車地から迎えに来てもらうことにしたのである。そして、彼の電話番号を私の携帯にセットし、いざ修道院見学へ。なお、バターリャとは英語のバトル;戦闘の意味である。
巨大な修道院、中世の石造建造物を見学し終わって、さて電話をしようとして我が身をくまなく探したが、携帯を持っていないことに気づく。どこかに落としたかと思い一瞬青くなったが、多分、車に置き忘れたと思い至った。しかし、彼がどこに駐車しているのか、皆目不明。一天地六の賽の目よろしく、全くの出たとこ勝負に賭け、妻とあてずっぽうに歩く。多分この辺だろうと見当をつけた路地を曲がったところで、100mほど坂を上がったところに停車している我が希望の星(黒のAUDI)を発見。まさに大航海時代の “Land Hoo”(陸地発見!!)と同じ気分だ。
総距離500mほどの地球探索。たった30分足らずのあてのない道行きではあったが、知る人とていない土地で心細いことたとえようもなし。ウトウトとしていた彼が「時の氏神様」に見えた。運転席のガラス窓越しにコンコンとノックしたところビックリ仰天、Oh my Godと言ったかどうだか?否、彼はポルトガル人なので “Aiya, Puta Madre!” と言ったかも?(意味はとても書けない!)
ともかく未知の土地で迷子にならなくてよかった。件の修道院は正式名を『勝利の聖母マリア修道院』と言う。迷子にならなかったのは、恐らく天のお導きだったのだろう。アーメン、ハレルヤ、なまんだぶつヽ(^o^)丿
バターリャ修道院の外観とその広場前に建つ英雄アルヴァレスの騎馬像
内部の礼拝堂、キリストの十字架像が安置¿され、その奥に壮麗なステンドグラスが外光に燦然と輝く。携帯がないのに気づいたのは、この後である。
修道院のエントランス、入り口の扉だけでも優に10m以上の高さがある。壮大である。
1954年の仏映画『過去を持つ愛情』の主題歌(Borco Negro;暗いはしけ)をアマリアドロリゲスが歌ったことで、主題歌も彼女もいっぺんにメジャーになった。私にとっても記念碑と呼ぶべきその海辺の景観だ。
記念すべき映画の一シーンとなったナザレの海岸。世界中からバカンス客が訪れる。見晴るかす海は雄大な大西洋だ。
ナザレの海岸
遥かなる悠久の時を経て、大西洋の荒波に浸食されたナザレの断崖。この地域は、ヨーロッパにおけるサーフィンのメッカであり、冬場には優に30mを超す大波があらわれて、命知らずの若者による壮烈な波乗りが展開される。
ナザレの断崖
海面まで100mはありそうな断崖のトップからの写真撮影は、いきおいこんな格好でシャッターを押さないと非常に危険だ( ;∀;)私は、高所が一番嫌いだ。
オビードス、実に11世紀から続く城郭都市、自治能力のある完結した街。
特に1282年にディニス王がこの街に魅了され、王妃イザベルに街を贈ったことから、以来1834年まで歴代の王妃の直轄地となった。城郭というおどろおどろしい佇まいとは異なり、城郭の中ははんなりとした女性的な雰囲気の小さな街である。現在も800名ほどの人が住む、現役の都市である。
城郭のすぐ外にある本日のホテル、かつての修道院を改装したもの。The Literary Manという図書一杯のホテルである。
オビードスの城郭内での一コマ、白い壁と赤紫の花が絵のようだ
かつての修道院の内部。我が部屋の前
9.13 リスボン泊
(専用車で移動;オビードス → シントラ → ロカ岬 → リスボン)
オビードスから車でおおむね1時間ちょっと、道中、事故が何ヶ所かであり、ハイウェイが渋滞していた。逆にシントラはリスボンからは約28㎞の距離にあり、エクスカーション(小旅行)がたくさん出ている。
シントラは、深い緑に覆われた山の中に城塞や王宮などいくつもの史跡が点在しており、町全体が世界遺産だ。ムーアの城跡(Moorish Castle)、Pena宮などを見学。観光客が多く、駐車スペースの確保が尋常ではなく、また急坂の道を上り下りすることで結構つかれる。
ムーアの城跡;その名の通り7~8世紀ころムーア人によって構築された石造の城壁である。重機のなかった当時、どのように作ったものか。時に軽量化のために石を砕いた跡も見受けられる。
シントラの街並み
ムーアの城跡の巡回ルートに咲き誇っていたアジサイ、こちらのアジサイは紫陽花とは書かずにカタカナ表記が似合う。
それと自然の巨岩をそのまま城壁の一部に取り込む技術がすごい。
Pena宮の中は、写真撮影禁止である。禁止を破るのは〇国人のみかと思いきや、殆ど全ての観光客が遠慮会釈もなく撮り放題のありあさま。吾輩は最後の厨房のみ許可されていたので撮影した。
山頂のPena宮
Pena宮の石彫の窓飾り
Pena宮の入り口
王宮の厨房;数々の豪華な食事が作られたことだろう。
ユーラシア大陸の最西端『ロカ岬』
この碑には、ポルトガルの英雄詩人カモンイスの詩の一節が刻まれている。
“Aqui… Onde a terra se acaba e o mar começa”
「此処に地果て、そして海始まる」
いよいよリスボン入り(9.13夕方)
ポルトガルの主要都市はすべて大きな川に沿って形成されてきた。ポルト;ドウロ川、コインブラ;モンデゴ川、そしてリスボンはテージョ川に沿って発展してきた。大航海時代にはバスコダガマの船出や、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも、皆、ここリスボンのテージョ川の埠頭から未知の陸地に向かったのだ。その地にようやく立った。歴史の重みが我が身にのしかかってくるような感じさえする。
ここで笑い話を一席。今回の旅行の事前予習によって、リスボンがテージョ川に沿って栄え、多くの船出を見送ってきたことは、十分承知していた。しかし、眼前の大河には5万トン級のカーゴシップ(貨物船)が浮かび、山のような超大型で超豪華な客船が4隻も列をなして停泊している。
そこで吾輩はここまで付き合ってくれたガイド氏に「この海はなんていう海か?」という愚問を発してしまった。ガイド氏はすかさず「お前なんということを!?この阿呆」と口には出さなかったが、思わず口を曲げ「テージョ川!!スペイン語ではタホ川と言うんだ。」と、大いにコケにされてしまった。吾輩にはどうしてもここが「川」だとは、とても思えなかった。向こう岸まで何キロもありそうだ。
この日夕方5時ころ、リスボンに着いた。ガイド氏と別れて、ひとまずホテルにチェックイン。すかさずコンシェルジェと相談して、FADOレストランの予約を確保すべくトライしたが、予約は2日前までにすべし、の由。今夜はどこも満席と。仕方がないので、明日の予約を確保してもらった。次なるはコインランドリーを探すも、街中にはなし。洗濯は断念。本場のカタプラーナ鍋を今宵の夕食にしよう
大河のテージョ川、沖に5万トンクラスのカーゴシップが見える。
リスボン名サンタ・ジュスタのエレベータ。20世紀初頭、エッフェルの弟子の設計により建造さる。45mもの高さのクラシックな乗り物。長蛇の列、写真だけで良しとする。
リスボン名物 チンチン電車。懐中に十分気を付ける必要があるそうだ。《外務省警告書》
夕やみ迫るコメルシオ広場。ドンジョゼ1世の騎馬像、この広場が多くの大航海船団を見送った。
今宵のディナーの場所に選んだのは、テージョ川のほとりのレストラン。
本場のカタプラーナ鍋を頂くことにする。勿論その前に、cervejaとvinho brancoを心行くまで味わった。
此処のカタプラーナ鍋は、妙に都会的で洗練し過ぎの感あり。もっと武骨で魚介が溢れんばかりの鍋を期待してきたが、これならば我輩の作るカタプラーナの方がよりポルトガルチックだ!!
【 ポルトガル都市部の治安状況 雑感 】
私は、海外旅行に出る時には毎回、外務省Webサイトに登録し、治安情報を確認して出かけることにしている。それは、海外旅行者用登録サイト『たびレジ』である。登録後から帰国までの日程で、渡航先国で旅行者への警告等が発生した場合には、自動的にメールで知らせてくれるありがたいサイトだ。
今回は、如何にあこがれの地といっても、日本とは文化も人々の生活様式も全く異なるヨーロッパの西の果ての国だ。旅慣れた吾輩でも、少しだけナーバスになっても不思議はないだろう。サイトへの登録後送られてきた情報は、かいつまむと以下の通りである。つまり日本大使館発の安全注意喚起である。
(1) ホテルの部屋付きの金庫は安心(信用)してはならない。
(2) ポルトガルでは、リュックサックは体の前で抱えるべし。
(3) リスボンの市電のうち、観光客が一番多く利用する15番と28番の系統では、多くのスリ、
強奪事件が発生しているので、乗降時には特段の注意を払うべし。
(4) FADO酒場が終了する夜中の街歩きは、特段に注意すべし。
極力レストランでタクシーを呼んでもらい、暗がりは歩くに非ず。
(5) 外出時には、すぐ取り出せる見せ金を用意しておくべし、などなど…。
日本大使館発の警告には、素直に従った。
先ずは、最初の訪問地ポルトのホテルでは、部屋に金庫が設置されていたが、わざわざチェックインカウンターに出向き、「セイフティボックスにパスポートと手持ちの大金?!!を預けたい。」と申し出た。応対に出たカウンターの美人さんは「部屋に金庫が設置されている。それを使って。」と、やんわり拒否られた。小生、ダメ元とは思いながら「日本の大使館からウォーニングが発出されており、部屋の金庫は安心できない。是非ホテルのセキュリティに預けるべし、と言われている。」旨を告げたところ、ようやく引き受けてくれた。
しかし、預かり証は出さないという。小生、「何故だ?」と食い下がるも、相手はとびきりの美人であり、彫り深く、瞳の大きなマケドニア風の美貌に負けて、“Sim, senhora! ”と安易に妥協してしまった。隣で見ていた妻曰く「なんでョ???」と突っかかる。我が身の助平心を見透かされてしまったようだ。妻の険しい目線が吾輩の心臓を射抜き、目は空(くう)を泳いだ。
また、如何にも観光客といった風情で歩くのは少し間が抜けているが、この国において日本人はどう見ても場違いな客人である。どんな格好をしようと、やはり目立つ。とすれば、あとは隠遁の術である。すなわち自らが日本人であることの気配を消すしかない。忍者になーれ !(^^)!
リュックサックを前で抱いている人は最近の日本ではよく見かけるが、当地ではついぞ見かけなかった。また、リスボンでは最後の一日しか観光時間がなかったので、待ち時間を含め移動に時間のかかる市電には結局乗らなかった。だから、スリの被害には合わなかった。タクシーが結構安価だったので、時間稼ぎにと移動は専らタクシーに乗った。英語が全く通じないドライバーも何人かいたが、私の両手で数えられる程度のポルトガル語の語彙で目的地を伝えることが出来た。
確かに、FADOレストランで歌を聞き終えるのは夜中になる。その時分に暗い街中に出るのは少しためらわれたが、災難に出くわす前にタクシーが拾えた。そして、見せ金は確実に準備していた。€100紙幣(13,000円ほど)を胸ポケットに突っ込んでおき、ホールドアップされたらすかさず出してやるつもりだったが、使わずに済んだ。こんな金を用意したのは、35年ほど前にニューヨークへ行った時以来である。
なお、リスボンまでの専用車のドライバー情報では、このような紙面にはとても公表できない他国や人種にまつわる差別感情を沢山擦り込まれた。すなわち『あいつらには注意しな。』とのことだったが、幸いに犯罪等のアクシデントには全く出くわさなかった。これこそが僥倖であった。
9.14 『ポルトガル最後の日』ではなく、滞在最終日 リスボン泊
早朝に起き出し、日の出前の薄明の時分から行動開始。
先ずは観光客として必ず行かなくてはならないベレン地区にタクシーで行き、「ベレンの塔」や「発見の塔」をまじかに見て歩き、ジェロニモス修道院の敷地まで行く。ポルトやコインブラの街で、多くの石像建造物や修道院の内部、はてまたキリスト教にまつわる収蔵物は飽くほど見たので、この地では「朝飯前の時間」にモニュメントの外観を目に焼き付けた。
リスボンの人たちが鼻高々に言う『金門橋』。その名の通り、アメリカの向こうを張って、テージョ川にかけられている上下2段の大橋だ。昇り始めた朝日が橋脚の向こうに見える。
1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建造された『発見の塔』。先頭が同王子、3番目がヴァスコ・ダ・ガマ、後方2番目にフランシスコ・ザビエルが彫られた75mもの高さを誇る石の塔。
社会科で習った、ポルトガル伝来図の本物が、ここ国立古美術博物館に陳列されていた。500年ほど前に大海を渡って交流された歴史の重みがほとばしる。信長の時代だろう
ベレンの塔。1520年に完成、かつては河口の要塞、航行監視と徴税、そして灯台、さらに水牢までが設備されている。
ジェロニモス修道院。石造の見事に巨大な建造物である。これら全てが、遠い植民地から引きはがしてきた富で打ち建てられたと思うと、興覚めするが(>_<)
同じ古美術博物館にて、この焼き物一個あれば、テレビの鑑定団に大手を振って出られるものを、と羨望の眼で観る。古九谷か、古伊万里か??
ベレン地区散策の後、朝食と帰路の飛行機のWEBチェックインをするために、一旦ホテルに取って返す。実は、明日のパリ⇒羽田間の飛行機は過度の混雑をしているらしい。多くのダブルブッキングがなされているようで、チェックインタイムの速さで座席が確保されるらしい。正にFirst come, first serviceの象徴、弱肉強食の文化だ。だから何が何でもやり切らなくてはならない。
午前10時少し前に航空会社からのメールが到来し、チェックインタイムになった旨の通知があった。早速PCを開き開始するが、どうもうまくいかない。画面のスクロールができない。画面の下部に隠れた書き込み情報を見ようとするが、その分画面を縮小しないと全体を見ることができない。1時間余もPCと格闘して、苦労してキーをたたき続けたところPCにはチェックイン完了のサインが返ってきた。が、やりきった感がしない。そこで、航空券を発券してもらった日本のエージェント(株)パーパスジャパン(東京)に電話し、事情を話してチェックインが完了しているか、確認してもらった。結果は、『完了確認』の由。やれやれである。早速、ホテルの部屋を後にし、FADOの女王の館に赴く。
これもタクシーでの移動である。歩いたらとても行き着かないだろう。『此処だよ。』との言で、タクシーを降りた。女王の館だとはとても思えないほどの簡素な邸宅だ。日本でいえばさしずめ『美空ひばり御殿』に匹敵するのか。そう、アマリア・ロドリゲスは、FADOと演歌の違いはあるものの、歌のうまさでは私は、この二人が世界の双璧だと思っている。
ともあれ、館に入ったところ受付のおばさんは『今、昼休み。2時まで待って。』と、少し冷たくあしらわれた。街歩きしながら時をつぶし、二時になったので再度訪れたら、今度は背の低いおばーちゃんが受付に居て、『ハ~イ、どーぞ。』とのこと。にこやかな対応である。実は、このおばーちゃんが16歳の時からアマリアに仕えてきたパートナーだったということは、館内をくまなく案内してもらった道中で知った、秘話である。そして、アマリアの沢山の秘話を教えてもらった。まさに、チャーミングなおばーちゃんだった。(舞い上がっていた故か、非常に残念だが彼女の名前を聞き漏らし、あげく写真も撮らせてもらうことを忘れてしまった。)
アマリアの最後の日本公演、いみじくも浜松がその地に選ばれた。当然聴きに行った。しかし、文字通り最晩年のコンサートとなった。
おばーちゃんの計らいで、ポスターの写真は撮らせてもらった。
世界中から歌い手のみならず、政・財界を含む多くの著名人がこの館に来訪し、アマリアと歓談し、そして時にはレコーデイングまで行われた彼女の居館である。できれば、存命中に来てみたかったが、残念だった。彼女の最後の部屋は、ドアを開けることすらできない永遠のとばりに包まれ、これまでの栄光を噛みしめながら静かにたたずんでいる。でも、私にとって、彼女と同じ空気を呼吸することが出来たことは、50年来の思いが実った瞬間だった。
アマリアの居館、今は彼女を偲ぶ博物館
アマリアの日本での最晩年のコンサート@浜松市、もちろん吾輩は聴きに行った。
そしてもう一つのメインイベント、生FADOを聴きに行くのだ。
昨日、リスボンのホテルに到着した時に真っ先にコンシェルジェに行き、アルファマのFADOレストランの予約取りをした。通常であれば、2日後の予約しか入らないそうだ。そんなネガティブな話は聞きたくないので、翌日の予約を何とか確保してもらった。今宵が滞在最終日なのだ。今夜しか聴きに行けない。少しだけおめかししたつもりで、下町のFADOレストランに赴いた。
ALFAMA地区には、小さなFADOレストランがひしめくように林立している。その内の一軒がホテル・コンシェルジェの推奨したお店である。Muito Benのお店、Parreirinha(パヘイリーニャと読む)だ。
19時オープンで、18時45分には店に到着していること、という条件なので来てみたが、まだ誰も待っていない。他の客が来ないうちに店内をパノラマ撮影してみた。右の壁に“ギターラ”(ポルトガルギター)がかかっているが、このあたりが店内の中央部、この空間でギターラと伴奏ギター(低音部)の2本の演奏で、歌い手一人のいわばトリオでFADOが繰り広げられる。
レストランのメニューは全くのポルトガル語しか記されていない。そこで、完全なあてずっぽーでオーダーした。意外にもおいしい料理が出てきた。
モズクのような海鮮風スープ。リゾットと、ムール貝のクリーム煮、エビの???
ともあれ、意外にうまかったな。めくら打ち、大成功ヽ(^o^)丿
モズクのような海鮮風スープ
エビの???
リゾットと、ムール貝のクリーム煮
我が席の2人向こうに大きなアンちゃんがいて、彼が私の視界を遮るので、歌い手の表情がまったく見えなかった。客は、World Wideな顔ぶれだ。隣の客はトルコから来たという美人の母娘3人とその友人たち計6人。私の左隣はドイツから来た初老の夫婦。店内には30脚くらい席があるようだが、完全満杯。しかし、年齢の割に皆さん大食いだし、ワインもよく飲む。正に鯨飲馬食のたぐいだ。
さて、食後はいよいよFADO開演だ。といっても食事が完全に終わってからではなく、適当に食事を中断しながら、と言った方が妥当だ。でも、演奏中は、集中して聞くことが求められる。私語は禁止で、話声がすると演奏を中断してしまう、売り手市場である。そう、我々聴衆は謹んで拝聴しなくてはならない。だが、ギターラの演奏は上手い。
第1ステージ 若手の女性歌手、第2ステージ 男性歌手、第3ステージ 大御所らしいおばさん歌手。
さて、司馬遼太郎翁の『街道をゆく』によれば、FADO歌手は哀愁を体臭として持っていなくてはならない由だが、第1ステージは◎、その後の男性歌手はコインブラファドのような透き通るような男声感がなく○、第3のおばさん歌手は哀愁感なく、むしろ『わたしゃ巧いんだ』という何か癪に障る感じが溢れ出ており×だった。声も鼻づまりのようで、プロ失格だ。だからCDも買わずに店を出た。
夜も零時を過ぎ、ミッドナイト。ポルトガルの夜は全般に暗い。暗がりを妻と歩くも、早く抜けたいとの思いが募る。タクシーを探すも、すぐには来ない。漸く空車を見つけ乗っけてもらう。ホテルに直行だ。
さすがに零時を過ぎるとリスボン一の繁華街といえども人通りはまばらになる。明日は10時前には空港に行き、リスボン発パリ行きのチェックインをしなくてはならない。荷物のパッキングをそそくさと済ませ、早々にベッドに倒れ込んだ。名実ともにポルトガル最後の夜。
翌朝は5時過ぎに起床し、パッキングの続きをする。一旦はスーツケースにすべての荷物をブチ込んだが、どうにも持ち上がらない。間違いなく23㎏の制限をオーバーしているようだ。そこで、こんな時のために厚手の帆布製のセカンドバッグを持参したので、超過分を分納する。以前サンフランシスコの空港カウンター前で、衆人環視の中でスーツケースを開き荷物を分けた苦い経験が活きた。あの二の舞はしなくて済みそうだ。
早朝からガタガタしていたが、準備が整った。朝食後、ホテルの周りを最後に散策。ポルトガルでは、古い建物の保存が至る所で行われている。丁度、ホテルの隣で改築工事が行われていたので紹介する。道路に面した古い建物の外壁部分の構造だけを残し、それ以外を解体した後に、新しい躯体を新築し、古い構造体と合体するのだ。こうすれば、外観上は古くからある建物がそのままのように錯覚する。しかし、過去の遺産を守るために国を挙げて壮烈な努力がされていることを思うと、素直に頭が下がる。ポルトガル行最後の印象である。
【 エピローグ 】
今回の旅の開始は3月23日、実に半年前に㈱パーパスジャパン社に旅のアレンジを相談したことに始まる。この旅行社を知ったのは、社長さんが『理想の旅は自分でつくる』を刊行しており、私はその読者という関係だった。最近は殆ど自分で海外旅行のすべてをアレンジしてしまうが、今回は初めての地域ゆえに、幹になる旅程のアレンジをお願いした。枝葉の部分はすべて自分で塩梅したが、満足のゆく旅ができたと感謝している。
加えて、もう一つ過去にない経験をした。帰りのパリ・羽田間のフライトで友人の妹さんがCAをされていて、ご一緒することが出来たことだ。我がフライトが決まった時点で彼女がシフトリクエストを会社に申し出てくれ、それがアクセプトされたことから、大安心の空路になった。こんなことは、針の穴に通すほどの僥倖である。
更にもう一つ、荷物に関しても過去にない初めての経験をした。こっちはアクシデントだが、羽田に着いたところで吾輩の名前を書いたカードを掲げている女性がいるではないか。こんな人に出迎えられる覚えはない、と思いはしたが申し出てみた。何と『カバンがパリで飛行機に積み込まれなかった。』と、愕然とするような話であった。
その情報はさらに込み入って、リスボンの空港で荷物を預けた際に、氏名と行き先のタグを妻のカバンと私のが相互に取り違えて貼られたようだ。つまり、私の名前が表示されたタグが張られていたのは妻のカバンで、妻のタグが付いた私のカバンは、2個とも無事に羽田で受け取ることが出来た。2日遅れで家に送られたが、これがポルトの空港での話でなくてよかった。よかったよかった。ヽ(^o^)丿古い友人夫婦は、ハネムーンの際に最初の渡航先でこんな目に遭ったという。
バターリャで迷子にならずに済んだこと、満員のFADOレストランでも何とか席が確保でき旅の最大の目的が果たせたこと、カバンのトラブルは最後の最後だったこと、そして飛行機には知り合いが乗っているなど、大いに助けられ勇気付けられた旅であった。
『病膏肓(やまいこうこう)に入る』ことになってしまいそうな、旅がまた増えてしまった。妻ともども健康であることに、心から感謝したい。
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