のんびり巡る個人旅行
キエフ&リヴィウ 木造教会をめぐる14日間
期間:2019年5月17日~2019年5月30日
ペンネーム:パク 様
キエフ
ウクライナはポーランドに接した旧ソ連の豊かな農業地域が独立した国で、その現在の首都キエフはソ連時代にはモスクワ、セント・ペテルブルグに次ぐ第三の大都会であった。
現在、政治的には、ロシアがクリミヤを奪い取り、最近の大統領選挙ではそれまでのEU寄りの人に代わり、ロシア寄りの政治経験のない元俳優が選出されるなど、EUとの綱引き状態にあるが、表面的には対立は表には出ていない。(市内で乗用車によるデモは1件あった。)WWII時にナチが侵入時にウクライナの畑地の表土を剥がして貨物車でドイツに運び出したと噂されている。
畑には農夫が働いていた。国旗は上部が空の青、下部が収穫時の小麦の黄の二色である。
独立記念塔
たまたま農夫が畑に出ていた
キエフ空港には、現役の思われるプロペラ機、ソ連製と思われる輸送機(イリューシンー76(?) )が駐機している(共にエンジンにカバーは掛かっていない。)EUからの航空機の乗り入れはあるが、主体はウクライナ国際航空であった。
市内には建築途中で放棄された建物が街の中心部にもある。
プロペラ機。複数機が駐機していた
ウクライナ国際航空機
ソ連製と思われる輸送機。軍用(?)
建築途中で放棄された建物。人気はまったくない
都心の公共交通機関として地下鉄(駅内部は撮影できなかった)、バスがある(公営と私営が併存、区別はつかないが料金は同じとのこと)。タクシーの表示を付けている車も市内を走ってはいるが、タクシースタンドに類するものは、キエフ鉄道中央駅でもなかった。ガイドに依れば、レストランないしホテルで呼んでもらうのが一般的とのこと。
地下鉄入り口(この駅は深さが地下150mでキエフで最も深いとか)エスカレーターの速度は速い
キエフ鉄道中央駅 正面
Golden Gate
元々はキエフ市に入る際の門で、伝説によれば、入場する際に料金を払う必要があり、goldenと名付けられた。ムソルグスキーの「展覧会の絵」中の一曲「キエフの門」のモデルとされている。
建物そのものに金は使われていない。1240年にカン族に破壊され、1982年に内部を門らしく作って、再建した。内部には教会もあるが、残っているのは床のモザイクが少々だけである。建物に入場すると建物の紹介ビデオが上映されており(言語はウクライナ語(らしい))、階段を登るとベランダから街が良く見える。
門の隣にはヤロスラフ賢王の像が置いてある。
Golden Gate
この奥が教会
ヤロスラフ賢王の像
内部
ベランダから見える隣の私立博物館
地方と首都は航空路、鉄道で結ばれている。鉄道は時刻表が公表され、読めるし、それなりの時間で走行してはいるが、線路が貨物との併用のためか、現地の人がrapid trainと呼んでいる列車(韓国製とのこと)にしても、先行する貨物列車の追い越しに手間がかかり、速度は遅かった。追い越し直後に走行速度は少し上がるが、そうなると、揺れるようになった。乗車の際には乗車券に加えパスポートの提示を求められた。
リビエブ駅構内
貨物。この他にタンク車もあった
キエフ創立者像
これは独立広場に立っているもので、妹1人と兄弟3人に組み合わせは他と同じ。
後ろは旧式のホテル、この像の右側に独立記念塔が建っている
マリイインスキー宮
1755年に完成したが、1819年に木造部分は焼失してしまい、現在の建物は1982年に再建された。一般に入場できず、海外からの賓客の宿泊に使用されているとのこと。その向かいに公園がある。
マリイインスキー宮(表示)
マリイインスキー宮(右側の部分拡大)
マリイインスキー宮
公園
国会議事堂
地元の参観者がガイドに連れられて見学に来ていた。外観はソ連式?
国会議事堂(表示)
正面は正にソ連
House of Chimeras
902年にクリエーターのGorodetskyが個人的に強化コンクリートで2年かけて建てた奇妙な建物。外観だけ見られる。道路の反対側には大統領府があるため、警備が厳しい。
外観
大統領府
外観
参考文献(一般):
1)黒川 祐次、物語 ウクライナの歴史、中公新書1655, 2002刊
2)Guide to Kyiv, ISBN 978-966-96810-0-3, 2007刊 (Purpose Japan 手配)
3)服部 倫卓、原田 義也編、ウクライナを知るための65章、明石書店、2018刊
キエフ市内
3)アンドリュー教会
このオーソドックス教会は1747年から1754年にかけて丘の斜面に建てられたたが、川に沿って建っているので、見晴らしは良いのだが、現在は建物の基礎そのものが不安定化し、壁が崩れ始めているとのことで、教会内部には入れてもらえない(でも入場料はしっかり徴収。)
1968年9月からは博物館として公開されることとなったが、現在、崩壊の程度を調査するためと称しているが、外観からは調査の実態は伺えなかった。
遠くにはビル
3-1)Pronya Prokopovna and Golokhvastov の像
アンドリュー教会南側向かいの道端に置かれている。
4)ミヒャエルgolden-dome修道院
元々、本堂はウクライナ風バロック様式で建てられ、鐘楼は1716-1719年に追加され、別棟は1713年に建てられた。共に内部で行事を行っていたので、撮影はできなかった。
1930年代にソ連により閉鎖されたが、ウクライナの独立により1999年に再開された。この修道院に通じる道路の壁には2017年の争乱の犠牲者を記念する写真が貼り付けられていた。
道路標示
正面入り口上部
鐘楼
争乱の犠牲者を記念する写真
5)ウラジミール・カテドラル
1852年に建築が始まり、内部の絵画は1896年に完成した。1988年にオーソドックス教会として100年を記念し、旅行者も行けるようになった。ウクライナ・オーソドックス・キリスト派がこの教会を管理している。
内部の絵画
参考文献
4)Art Map Kyiv (ホテルで入手の市内案内図)
5)Wiki, St. Andrew Church, 打ち出し日:2019/05/11
6)Wiki, St. Michael Golden-Gate Monastery, 打ちだし日: 2019/05/11
7)Wiki, St. Volodymyr’s Cathedral, 打ちだし日:2019/05/11
続キエフ
1)ベチェールスカ修道院(通常:洞窟寺院)
地下鉄アーセナール駅(この近くに武器製造工場があり、その工場の製品、即ち武器が保管されたために、この名前[武器庫]となった)からミニバスで終点まで行くと修道院の入り口に着く。さらに歩いて行くと、更に門があり、その先に地下墓地への入り口がある(内部の写真撮影不可)。
地下墓地は実質的に真っ暗なので、ろうそくを買って(実質的に入場料の代わり)、火を灯して、足元を確認して歩き始める(始めは目が慣れないのでツライ。)今回は短い方のルートだけを見学させてもらった。内部には僧侶のミイラ、小さなほこら等、が残っている(言わば、ローマのカタコンベの小型版)。
門から坂道を下る途中
地下道は入り口左側
ウスペンスキー大聖堂
元々の建物は11世紀に建てられたとされるが、WWII時にソ連が破壊し、現在の建物は約3年前に再建されたもの。ごく一部に古い部分が残っていると言う(しかし、パッと見では分からない。)
入り口
堂内部の下部、中央扉の拡大
三位一体教会
内部の18世紀に壁に描かれた聖人の後光部分が三角形になっていることで直ちに理解される位一体の考えを伝える、もともとは12世紀の教会である。
壁に描かれた聖人
とにかく暗く、ストロボもたけない
壁に描かれた聖人
中央祭壇、狭いために説教台は置いてない
大鐘楼
18世紀に建てられた高さ56メートルの塔である。
トラベズナ教会
たまたま結婚式が行われていた。入り口のみが古い部分で、ドームの付いた部分は比較的新しいとのこと。
結婚式
堂内で3人の僧が歌っていた
トラベズナ教会の入り口からみたドニプロ川(日本ではドニエプロと表記されている)
神父
入り口。色が落ちてしまっている
2)ソフィア大聖堂
元々は1037年に建てられたとのことだが、現在の建物は18世紀のもの。鐘楼は独立しており、聖堂への入り口となっている。
本堂は博物館の扱いで、2階、3階まで登って、壁画を見ることができる。2階の内部ベランダ部分から中央祭壇が良く見える。但し、画の保存状態は悪い。
リヴィウ(Lviv)
この街はウクライナの中心部から西に離れたポーランドに近い場所にあり、街の雰囲気も昔のヨーロッパを彷彿とさせ、ロシア的な感じはしない。リヴィウはこの地域の中心的な街ではあるが、空港は新しく、キエフから飛んできてみると、近代的過ぎて違和感があるが、一旦空港を出ると、ゆったりとした穏やかな感覚に包まれる。街中で英語はあまり通じないが、街
が小さいためか歩くことにはそれほど困らない。
鉄道駅周辺は工事中で、路面電車は入れない。
路面電車側面の表示
駅の玄関
1)薬局博物館
本業は確かに薬局で薬も販売しているが、医薬品陳列棚の向かいには生薬の瓶や秤が陳列してある。
看板。エノテカ博物館(?)
生薬の瓶
医薬品陳列棚
秤
壁面の装飾
左の下段中央の拡大図
街の中心部は、乗用車の乗り入れを規制し、路面電車をかなり頻繁に走らせている。(代わりに中心部にバスはなかった。)
1349年当時のポーランド王がこの街を征服後、この広場が作られた。高さ65メートルの塔のある市庁舎が中心に建ち、彫刻が立ち、周辺の通りには多数のレストランがあり、和やかな雰囲気である。
彫刻
彫刻
5)民族建築・風俗習慣博物館
街の中心部からは少し離れているが、ここは、言わば、日本の明治村。18–20世紀の農民の暮らしを伝える。周辺の集落の古い家、学校等を移築して展示している。
古い家
学校(建物全体)
その中にChurch of the Wisdom of Godがある。
鐘楼、19世紀。もともとは別の教会のもの
堂内
6)城壁
街を囲んでいた壁の残り。
7)King Danyloの像
1201年に生まれ、工芸の発展に寄与した。
8)Gunpowder Tower
この石造りの建物は1554–1556年に作られ、戦時には火砲の火薬や兵器の、平安時には穀物の保管庫だったとのこと。Assumption churchの隣にある。
城壁
Gunpowder Tower
King Danyloの像
リヴィウ市内
9)アルメニア教会
通りから塔は目に付くが、14世紀に建てられた教会そのものの入り口は極めて目だたない。
塔
入り口
外観
堂内。かなり暗い
10)Eucharist教会(現地配布の地図上の記載)
8世紀に建てられたバロック様式の教会。かなり奥まった場所にある。
外観全体
堂内部
11)Assumption church
リノック広場から路面電車No.2の終点行き先にこのルネサンス期の教会の塔が見える。回り込んで教会に入ると、別世界。鐘楼は1670年代に作られた。本堂は1421年に作られたとされる。
入り口。屋根にドームが3個付いている
堂内部
ステンドグラス
12)Transfiguration church
元々は1703–1731年の間にローマ・カトリック教会として建てられたが、1906年にギリシャ・カトリック教会となり、1989年のソ連崩壊により、教会として復活した。
看板
祭壇正面
外観
13)Andrew教会
17世紀に建てられた修道院を改装してウクライナ・カトリックの教会としたもの。この日はたまたま地元の子供が歌っていた。堂内部はかなり暗く、通常は入らせてもらえない様子だった。
道路表示
堂内
外観全体
堂内
14)SS Peter and Paul church
17世紀 にオーソドックス教会に代わってカトリック教会が建てられた。その後、教会の所有者が多数回変わった。
表示
側洞正面
内部は補修作業中
15)Tattooの下書き
路上での営業(?)街中ではもう一人見かけた。
この次の工程は?
続リヴィウ(郊外の木造教会)
この地に近接するスロバキアには、スカンジナビアから来た船大工の作った木造教会が残っているが、この地には、迫害により工期の短縮を迫られたと言う訳ではなく、単に手近な材料を使ったという理由による木造教会が残っている。
1)The Holy Trinity Church
建物は伝統的な3分割となっている。土台は通常のように、柱が石に直接当たっている。庭にはイースターエッグ風の装飾が置いてある。
3段目が教会名
土台
とても静か
イースターエッグ風の装飾
2)St. ローレンス教会
木造教会ではないが、雰囲気が良さそうだとの予測で入らせてもらった。
堂内はまだ掃除中
本堂への入り口
自慢(?)のオルガン
3)Potelych
リヴィウからさらにポーランドに向かって行き、もう少しで国境という位置にある。敷地そのものは斜面で、狭いが、階段を登っていくと、本堂を含めた3棟が見え、右手に像が1体置かれている。左程大きくない本堂の建物の壁を作る太い木に壁一面に木に直接描かれている(布がなかったためと言う)。
参道入り口に立てられた看板の記載によれば、ソ連時代にこの教会の神職はシベリア送りになってしまったとのこと(看板の記載)。
The church of the Holy Spiritは1502年造のBoyky型の古い教会である。堂内部の画は1620-1640年に描かれ、建物は最終1970-1972年に補修されている。
看板。下半分の言語は英語
門に飾り(しめ縄(?)がある)
鐘楼
木の壁に直接描かれている
全体。この日は他に訪問者なし
本堂
祭壇正面
ユネスコの認定書
4)Skole(看板は現地語記載のみ)
この街はリヴィウから南に下った位置にあり、この教会は街道から少し離れた位置ある。通常の活動をしている様子。
日陰の右側にも一山ある。スピーカーが外向きに付いていて、堂内部の声が外にいる人にも聞こえるよ
うにしている。庭に十字架とマリア像があるのも共通。
途中の風景
入り口は敷地の左側にもある。
門。通路は南北に通っている
本堂。堂内は狭いので、周辺に人が入る順番を待っている
続々リヴィウ(郊外の木造教会)
5)ドロボヴィッチの博物館
案内板のUSAの国旗が示すように、もともとの木造教会をUSAの援助により博物館とし、公開している。壁にイコンが直接描かれている。もともとこの街は塩の生産で豊かになっていた。このため、塩水を汲み上げるための桶が街のシンボルにもなっている(ガイド談)。
案内版。最下段にmysemとある
修復作業中
天井にもびっしり
木壁に直接描かれている
別の壁面
UNESCOの認定証
街のシンボルに
堂内部の配置は定石通り
12使徒の一部(部分拡大)
木壁の部分拡大
定石の最後の晩餐
6)無名の木造教会
たまたま消防署の敷地内に残っている木造教会をガイドが行程の途中で探し出して寄ってもらった。従って、建物にも表示はまったくなかった。教会入り口の木製の扉には画がうっすらと残っている。戸は閉まっていてはいれなかった。退去時には管理する消防署には感謝した。
表示は何もない
剥離寸前
7)昼食を摂った街
街の中心部には塔の付いた役場があった。その周辺の広場には、新しい教会もあった。
食堂
薬局、開業医らしき表示はほとんど発見できず、代わりにこの広場だけでも、薬局はもう2軒あった
この時期ならではの菜の花
教会。古い時計塔は今でも機能している様子
ズーっと広がる緑
参考文献
1)リヴィウからTukhlya、Google 地図(Purpose Japan 提供)
2)Wiki, Wooden Tserkvas of the Carpathian Region in Poland and Ukraine,
打ちだし、2019/06/11
3)Free Map Directions, Potelych sights
関連リンク